「ペットとの別離」をマンガと小説から読み解く 「グーグーだって猫である」を読みましたか?
「ノラや、ノラや」。それは、かけがえのない存在へのやさしく親密な呼びかけだ。でも、その名前の主はもういない。その呼び声は、ぽっかりと空いた虚空に吸い込まれてゆくばかりである。形あるものはすべて消えてしまうとわかっていても、百閒はいなくなったノラへの思慕をついに断ち切ることができない。ほかの人から見ればただの猫かもしれないが、百閒にとってはそうではない。「ノラ」という名前の、代替不可能な、心から愛してしまった「何か」である。
きっと誰しもが、百閒にとってのノラのような存在を持ちうるのだろう。口をついて出てくる愛するものの名は、それだけで一編の詩となり、歌となり、祈りとなる。まるでその響きのなかでは、愛する者の夢を一瞬だけでも見ることができると信じているかのように、百閒は何度も、たったひとつの名を口にする。「ノラや、ノラや」。その哀切な呼びかけは、愛することが、かくまでやりきれない苦しみに帰結しうるという残酷な道理を、私たち読者に伝えてやまない。
死してなお、飼い主の心の中に咲き続ける
日本の少女漫画史上、最もすぐれた描き手は誰かと聞かれたら、私はただちに大島弓子の名を挙げる。彼女の真骨頂はストーリー漫画だが(大島が描く少女たちの内面世界は恐ろしいほど繊細ではかなく、寂しく、そして美しい)、エッセイ漫画だって捨てたものではない。
『グーグーだって猫である』は、初めての飼い猫サバに死なれて落ち込む大島の元に、2番目の猫グーグーがやってくるところから話が始まる。大島が住んでいる自然豊かな吉祥寺を舞台に、愛らしいグーグーや、しだいに数が増えてゆく、その他の個性豊かな猫たちとの日常が、味わい深く描かれてゆく。
この作品の白眉は何といっても、大島の入院と抗がん剤治療が描かれるくだりだろう(文庫版第2巻)。大島は1997年12月、猫たちの世話を知人に頼んだのちに入院し、卵巣がんと子宮筋腫の摘出手術を受けている。その様子は比較的さらりと描かれるが、がんの進行状況は第Ⅲ期で、命を落としてしまう危険性が十分にあったようだ。
病院を包む冬の冷たい空気のなかに、死の気配が濃厚にたちこめる。「わたし」の体からは新しい命を胚胎する機能がすでになくなり、治療の影響で白血球の数値は下がったり上がったりする。大島はすでにサバの死を経験していて、飼い猫の死がどんなものかを知っていたが、死ぬのは猫たちばかりではない。この「わたし」もまた死ぬのである。死は、しばしば思いがけずにやって来て、容赦なく命を運び去る。その瞬間、ヒトも猫も、同じように無力なのだ。