実は役に立つ「論語の素読」と「偉人教育」 「君たちはどう生きるか」というモデルの不在

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:私は学校で教えられることにはその社会が代々、暗黙のうちに共有してきた価値観、人が持つべき徳といった要素が含まれるべきだと思うんです。子どもに身に付けてほしい徳や価値観が学校で教えられ、子どもがそれを身に付けることで社会でまっとうに暮らせるという関係性こそ、あるべき姿だと思うんですね。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

例えば人権の話について、「日本の人権教育では、おもいやりや優しさばかり強調されている」と書かれていましたが、まさにおっしゃる通りで、現場の先生方は例えば人権について教えるときでも、どうしても「思いやりを持ちなさい」と教えてしまう。

私も小学校などの道徳教育や人権教育をときどき参観しますが、日本の学校の道徳の時間というのは、ほぼ国語の時間なんです。テーマが何であっても、それが書かれた一節を読んで、「みんなでそれぞれの人の気持ちを考えましょう」と先生が言う。つねに共感を求める取り上げ方ですね。公正とか正義とか権利という話には直接には向かわない。

ただ私はそれを一概に否定するのではなく、われわれはそういう土着的な感性の上に近代的な哲学を載せているのだという事実を、自覚的に認めるべきだと思うんですね。実務上もそこに配慮しつつ学校の道徳のあり方を考えていくべきで、そこを考えずに道徳の教科化を進めると、子どもたちにダブルバインドを刷り込むことになりかねない。

道徳をめぐる論理と土着的感覚の間に矛盾

佐藤:道徳をめぐる論理と土着的感覚の間には、すでに矛盾が生じていると思います。わが国の子どもは「集団に適応し、仲よく行動しなければいけない」と、日々、暗黙のうちに教えられる。ところが道徳の教科書を開くと、「個性を大事にしましょう」と書いてある。

中野:おそらく暗黙知の部分は低学年で教わり、高学年になって知的水準や抽象度が高まるほど、概念や倫理、哲学に行くことになるでしょう。低学年で教わったものと違うことを高学年で学ぶと、高学年のほうが正しいと思うわけです。

昔は「みんなで仲よくしましょう」と言っていたのに、そのうち、権利とか個人とかいう概念を教わって、「仲よくする」というのは幼稚な、進歩していない考え方で、大人になって学んだことが正しいということになる。

佐藤:「田舎の村で暮らす人々が、『人生経験を積んだ古老より、小学校を卒業したばかりの子どものほうが賢い』と思うようになったから、近代が始まったのだ」とは、アメリカの社会学者ピーター・バーガーの名言です。その意味では土着の否定こそ、近代的な学校教育の本質。しかし土着的感覚に支えられない論理は、とかく空虚な観念になってしまう。

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