実は役に立つ「論語の素読」と「偉人教育」 「君たちはどう生きるか」というモデルの不在

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ただこれが道徳の刷り込みで終わってしまうとすると、かえって危険かもしれません。まだ座学で道徳を教えているほうが無難かもしれない。

佐藤健志(以下、佐藤):座学であれば、先生も「自分はかくかくしかじかの道徳を教えた」と自覚しています。ところが日々の学校生活で暗黙のうちにとなると、何を教えたのか自覚できない。先生がセコい自己保身や、事なかれ主義で行動するのを見て、子どもたちが「なるほど、あんなふうに振る舞うのが正しいんだ」と納得してしまうことだってありうる。英語でも「Do as I say, not as I do」(私の教えに従え、ただし行動は真似するな)と言うくらいです。

柴山桂太(以下、柴山):集団の中で道徳を身に付けるという経験はもちろん僕にもあるんですが、はたして何が正しかったのか、いまだによくわからないところがたくさんあるんです。

子どものとき仲のいい友達とけんかしたけど、そのときの自分の対処方法が正しかったのか、誰も教えてくれない。自分でいろいろなことを考えた気はするけれども、客観的に判断する機会が子どものときにあったかというと、なかった。だから大人になっても「よくわからない」で終わっている。そこは工夫の余地があるんじゃないかなと思います。

素読と偉人教育

中野:伝統的な道徳教育として、例えば『論語』の素読といったものがありますね。『論語』の内容を意味がわかるように教えるのではなくて、単に「いいから覚えろ」というだけ。まず型から入る。それが成長するに従って、自分の身になるという考え方です。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『看護学生と考える教育学――「生きる意味」の援助のために』(ナカニシヤ出版、2016年)、共編に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(撮影:古川雄嗣)

柴山:僕は「石井式国語教育」というんですかね、漢文や古文を丸暗記するところに通っていました。そこで論語の素読もしたんですが、子どもだから意味はまったくわからなかったですね。漢字に慣れたという意味では、よかったように思いますが。

江戸時代の事例を見ると、例えば有名な鹿児島の「郷中教育」の場合、子どもの頃に『論語』の素読をやった後、16歳になると今度は自分が『論語』の内容を年少者に教えているんです。最初に読んだときには訳がわからなくても、年下の子どもたちに教えるのに内容を説明しなければならなくなり、そこで意味を再確認する。

昔の『論語』教育には理解の段階があって、まず覚えて教えて、さらにその先も人生経験を踏まえて新たな意味を見いだしていく、という生涯教育になっている。子どものときにただ読まされて終わりだったら、何も身に付かないですね。

それより僕が道徳教育として優れているんじゃないかと思うのは、偉人教育です。特に地元の偉人について教えることは、今でも学校教育の一環として課外授業で行われていて、地元の偉人の記念館にみんなで遠足に行ったりしている。

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