実は役に立つ「論語の素読」と「偉人教育」 「君たちはどう生きるか」というモデルの不在

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:もし今の小学校で道徳を教科化するとしたら、やはりディベートが入ってくると思うんです。例えば今、学校で主権者教育というのをやっていますが、それもディベートと模擬投票、権利の主張といった西洋的なスタイルばかりになっている。

道徳教育もテキストを作ってディベートさせるとなると、意識的に一般の日本人の土着的な良識感覚に合うテキストを作っていかないと、やたらと理屈っぽくて議論がうまくて、権利の主張ばかり激しい子どもばかりになってしまいかねない。それが「道徳的な子」ということになったら、みんなますます道徳の時間が嫌になってしまうでしょう。

日本人独特の感性でグローバル人材を育てられるか

佐藤:グローバル人材を育てるのが、現在の道徳教育のひそかな目的だとすれば、間違いなくそうなるでしょう。「道徳は日本人離れするためのもの」ということになりますから。

前編でも話題になったように、道徳教育にはモラル(倫理)とディシプリン(規律)の二つの側面があります。ところがこの二つは、往々にして矛盾する。モラルを否定することが正しいディシプリンである、という逆説が成立してしまうのです。となると「日本の伝統的なモラルの否定こそ、学校で教えるべきディシプリンだ」と構える姿勢も、むげに否定することはできません。

:日本人独特の感性というのは、例えば先人に感謝を覚え、万物に対して敬意を持ち、人の気持ちをくみ取れて、といったものです。道徳の学習指導要領には自然への「畏敬の念」といった言葉も入っていて、そこは日本人的感覚だなと感じます。

柴山:いま施さんがおっしゃったのは、「教える」というよりは「自覚させる」ということではないでしょうか。「自然への畏敬を持て」と教えるのではなくて、もともと子どもたちが持っている感覚に、「こういうのを自然への畏敬というんだよ。それは大事なことなんだよ」というふうに、方向づけるという印象ですね。

:そうすべきだと思います。普通の日本人の感覚に合っていないと、教わっても身に付かないでしょうし、かえって世代間に断絶が生まれたりして、よくない結果になってしまうのではないかという気がします。

古川:おっしゃることは非常によくわかるんですが、他方で私が思うのは、そうやって「日本人は昔から自然を敬って大事にしてきました」と説かれる一方で、われわれ近代の日本人は、肉は食いまくるわ山は切り崩すわで、自然への畏敬なんてカケラもないような生活をしている。

そこにはものすごい矛盾があるわけで、その矛盾を考えさせなければ意味がないと思うんです。そしてそれを考えるためにも、やはり西洋近代のロジックを教えることが必要だというのが私の考えです。

久保田 正志 ライター

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くぼた まさし / Masashi Kubota

1960年東京都品川区生まれ。経済系フリーライターとしてプレジデント社・東洋経済新報社・朝日新聞出版社などで取材・執筆活動を行っている。著書に『価格.com 賢者の買い物』(日刊スポーツ出版)。ペンネームで小説、脚本等フィクション作品も手がけている。

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