前川喜平氏が憂慮する「安倍政権に蠢く野望」 戦前回帰の教育勅語がダメな理由を徹底解説
光太郎は、亡き妻の智恵子を歌った詩集『智恵子抄』などで有名だが、戦時中は政府の戦争遂行に協力し、戦意高揚の詩を書いていた。空襲で家を失った光太郎は、宮沢賢治の弟清六を頼って岩手県花巻に移り住む。小さな小屋に独居した光太郎は、戦争に協力した自分の愚かさと向き合った。なぜ自分はこんな戦争に協力したのか。何が自分を駆り立てていたのか。
その中で彼は「典型」と題する詩を書いた。その書き出しはこうだ。
「今日も愚直な雪がふり / 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。 / 小屋にゐるのは一つの典型、 / 一つの愚劣の典型だ。 / 三代を貫く特殊国の / 特殊の倫理に鍛へられて、 / (略) / 端座粛服、 / まことをつくして唯一つの倫理に生きた / 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。」(原文ママ)
光太郎が言う「三代を貫く特殊国の特殊の倫理」こそ、教育勅語に込められた天皇絶対主義の道徳である。光太郎は祖父と父のことも詩に描いている。「ちよんまげ」という詩では、心ならずもちょんまげを切った「おぢいさん」がこう言う。
「文明開化のざんぎりになつてしまへと、 / 禁廷さまがおつしやるんだ。」「禁廷さまがおつしやるんだと聞いちやあ、 / おれもかぶとをぬいだ。 / 公方さまは番頭で、 / 禁廷さまは日本の総元締だ。」
禁廷さまとは天皇のこと、公方さまとは徳川将軍のことだ。
光太郎の父は彫刻家で東京美術学校の教授だった光雲である。今も皇居外苑に残る楠木正成の銅像は光雲とその弟子が制作したものだ。「楠公銅像」と題する詩はこう始まる。
「―まづ無事にすんだ。 / 父はさういつたきりだつた。」銅像の木型が見たいと明治天皇が望んだので、光雲らは大騒ぎで二重橋内に木型を組み立てた。天皇がこれを見に来たとき…「かぶとの鍬型の劔の楔が一本、 / 打ち忘れられてゐた為に / 風のふくたび劔がゆれる。 / もしそれが落ちたら切腹と / 父は決心してゐたとあとできいた。」
そして、この詩は次のように終わる。「父は命をささげてゐるのだ。 / 人知れず私はあとで涙を流した。」
光太郎は太平洋戦争が始まったときの自分を振り返って、「真珠湾の日」と題する詩も書いている。
「天皇あやふし。 / ただこの一語が / 私の一切を決定した。 / 子供の時のおぢいさんが、 / 父が母がそこに居た。」「私の耳は祖先の声でみたされ、 / 陛下が、陛下がと、 / あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」
光太郎はこのように「三代を貫く特殊国の特殊の倫理」に支配されていた自分が「愚劣の典型」だったと自覚したのである。
戦前回帰派は「悪性のウイルス」
しかし一方、光太郎のような覚醒を経ることなく、「特殊の倫理」を戦後に持ち越した人たちもいた。そういう人たちは、政治家にも経済人にも教育者にも宗教家にもいた。彼らは日本国憲法を「押し付け憲法」「マック憲法」(マックはマッカーサーのこと)などと蔑み、「日本人にふさわしい憲法」が必要だと叫び、個人の尊厳よりも国家や民族を上位の価値とする。
自由や権利よりも義務や責任を強調し、自己抑制や自己犠牲を美徳とし、一人ひとりの個性を伸ばすことよりも国・学校・郷土・家族などの「全体」に奉仕することを重視する。個人主義という言葉が嫌いで、滅私奉公という言葉が好きな人たちだ。端的に言えば「戦前回帰」を求める人たちである。
戦前回帰の動きは戦後の日本においてつねに存在していたが、言論の世界と学問の世界からそれをしっかりと批判し、排除する力が働いてきた。その力が近年明らかに弱まっている。
それに逆比例して戦前的価値観を持つ人たち、国家主義、自民族中心主義、歴史修正主義を身にまとった人たち、教育勅語に込められた國體思想を信奉する人たちが、その黒い姿を日本中のあちこちに現してきている。
その勢力は、日本会議、日本青年会議所、神社などを巣として増殖を続け、十分な免疫を持たない若い世代に「悪性のウイルス」が広がっている。
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