前川喜平氏が憂慮する「安倍政権に蠢く野望」 戦前回帰の教育勅語がダメな理由を徹底解説

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前述の冒頭部分は次のように続く。

「我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ此レ我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス」

「忠」とは国の中で天皇のために尽くすことであり、「孝」とは家の中で親のために尽くすことだ。臣民すなわち天皇に従う民は天皇の赤子(せきし:子ども)とみなされ、日本の国は天皇というビッグファーザーのもとに絆を結ぶ一つの大きな家族だとされる。

一方、一つひとつの家は国を構成する単位であるとされる。つまり、「国」は大きな「家」であり、「家」は小さな「国」なのだ。父親を「家長」とする「家」と天皇を「統治権の総覧者」とする「大日本帝国」とは、相似形になっている。それが日本という国の古今不変のあり方、すなわち「國體」だというのである。

そして、すべての臣民(しんみん:天皇に従う民)が「忠」と「孝」という道徳を代々受け継いできた、その美しさこそ「國體の精華」であり、教育の源もそこにあるのだという。このような国家観を「國體思想」という(「國體」は今日では通用しない観念なので、今日では通用しない漢字で表記する)。

教育勅語に込められた天皇への忠誠

そもそも教育勅語という文書は、明治天皇の侍講であった元田永孚と伊藤博文のもとで法制官僚として腕を振るった井上毅が中心になってつくられたものである。全国の神社を天皇制の下に統合した国家神道とあいまって、戦前戦中の日本人の精神を支配した「教義」だったと言ってもいい。

これは日本古来の伝統でも文化でもない。1890年につくられ、1945年には破綻したのだから、その有効期間は55年間だった。1947年に制定され、2006年に改正された教育基本法(旧法)のほうが有効期間は長かった。

1946年1月、昭和天皇は「人間宣言」を行い、同年11月に公布された日本国憲法は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」とした。教育勅語の神話国家観は完全に否定されたのである。主権は天皇から国民に移り、教育勅語に代えて新憲法下の教育の理念を示す法律として1947年3月に教育基本法が制定された。

こうした経緯を受けて、1948年6月、衆議院は教育勅語を憲法に反する文書として排除することを決議し、参議院は教育基本法の制定により教育勅語が失効したことを確認する決議を行った。

教育勅語に列挙されている徳目は、天皇主権の国家と封建的な家制度を前提としたものであって、「父母ニ孝ニ」は家長である父親への服従を前提としたものであり、「兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ」は長男だけが家督相続者であることを前提とするものであり、「夫婦相和シ」は妻の夫への従属を前提とするものであり、「國憲ヲ重シ(おもんじ)」は天皇が定めた憲法に国民が従うことを前提としたものだ。いずれも日本国憲法の精神に反する道徳であり、今日でも通用する普遍性を持つものとは到底言えない。

徳目列挙の最後に出てくる「一旦緩急アレハ(ば)義勇公ニ奉シ(じ)以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ(べ)シ」のくだりは、「戦争になったら忠義と勇気をもって天皇のために身を捧げ、永遠に続くべき皇室の命運をお支えしろ」という意味であり、個人の尊厳、国民主権、平和主義に基づく日本国憲法のもとでは、完全に否定されるべき内容である。この教育勅語を現代に再生させようとすることなど、正気の沙汰とは思えない愚かな考えである。

教育勅語に込められた天皇への忠誠という倫理は、1945年の敗戦までの日本人の心を支配していた。敗戦のとき、それを信じていた自分の愚かさに気がついた人は多かったはずだ。特に子どもたちはそうだったろう。大人たちの中には、それに気づいた人と気づかないまま架空の倫理を戦後に持ち越した人がいた。

自分の愚かさに気がついた人物の典型として紹介したいのが、詩人で彫刻家だった高村光太郎だ。

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