野球と役所の街、「関内」駅が直面する転換点 地域の歴史は幕末に始まったが、駅は新しい

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1876年、関内再建計画が完了する。跡地に完成した公園は、彼我公園と命名された。この頃から、関内にはアメリカ人が増加しはじめた。アメリカ人が増えたことで、彼我公園内でベースボールを楽しむ人の姿が見られるようになる。実際、1871年には整備中の公園敷地内で日本初の野球試合が開催されている。その後も、彼我公園ではベースボールの試合が定期的に開催されていく。

日本野球発祥の地でもある彼我公園は、外国人居留地制度が廃止されたのに伴って1909年に横浜市に管理権が移った。それと同時に、横浜公園と名称が改められる。

ベイスターズの本拠地・横浜スタジアムの前身である横浜公園平和球場は、関東大震災の復興事業として横浜公園内に着工された。それまでは運動場に毛が生えたようなグラウンドだったが、1929年にはスタンドのある立派なスタジアムへと生まれ変わった。横浜公園平和球場を中心に、横浜の野球は熱を帯びていく。

1934年にはアメリカのメジャーリーグが来日し、ベーブルースを擁するメジャーのチームが各地を転戦した。横浜公園平和球場でも、熱戦が繰り広げられている。

球団の横浜移転は1978年

日本でプロ野球が産声をあげたのは、それから2年後の1936年。しかし、戦時体制の色を濃くしていた日本では、年を追うごとに野球の開催が難しくなっていた。

皮肉にも、“平和”と名のついた横浜平和球場は軍用化を迫られる。1942年には、スタジアムのスタンド部分が捕虜収容所へと改修。その後、食糧増産のためにグラウンドは農地に転用された。

敗戦後、進駐軍は横浜公園や横浜平和球場を接収。このとき、横浜平和球場は「ルー・ゲーリック・メモリアル・スタジアム」と改称させられた。進駐軍に接収されたこともあり、日本人は自由に横浜公園へと立ち入れなくなった。しかし、アメリカ軍は野球に対して理解があり、アメリカのチームと対戦する場合に限って日本人の立ち入りを認めた。

1954年、大洋漁業は松竹からプロ野球チーム・洋松ロビンスの経営権を譲り受け、球団名を大洋ホエールズに改称。本拠地を神奈川県に移した。だた、接収されていた横浜公園を本拠地に定めることができず、暫定的に川崎球場をホームスタジアムにした。

横浜スタジアム(写真:7maru / PIXTA)

その後、横浜公園の接収が解除されたにもかかわらず、スタジアム改修費が工面できず、横浜への移転は1978年まで遅れる。横浜に本拠地を移したとき、都市名の横浜を冠した横浜大洋ホエールズへと改称する。

親会社の企業名を前面に掲げる風潮が強かった当時の球界において、ホエールズは早い時期から地元密着・地域密着を掲げた。“横浜”という地元を大切にする姿勢は、ホエールズからベイスターズへと名称が変わっても、そして親会社がDeNAになっても変わらない。街の玄関でもある駅に対してもベイスターズ愛を注ぎ込む。

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