野球と役所の街、「関内」駅が直面する転換点 地域の歴史は幕末に始まったが、駅は新しい
関内駅の境遇を知るには、幕末期の横浜までさかのぼらなければならない。関内と呼ばれるエリアは時代とともに変化を生じ、現在は駅一帯を指す概念にまで拡大している。しかし、駅が開業する以前までの関内は、もっと狭い範囲を示す“地域名”だった。
幕末、横浜は開港場に選ばれた。ここから横浜、そして関内の発展は始まる。この際、幕府は攘夷を主張する志士たちから外国人を守るため関門と番所を設置した。この関門の内側が“関内”、外側を“関外”と区分した。
関内駅が開業したことで、本来は関外だったエリアと関内の線引きがあいまいになった。実際、伊勢佐木町は本来なら関外にあたるエリアだが、関内駅と地下道で結ばれていることもあり、便宜上、関内に区分されることもある。それは、根岸線の関内駅が開業したことにより、関内駅の概念が地名から駅名へと変化したことを示している。関内駅の出現によって、関外という概念は希釈されたのだ。
関外にあたる伊勢佐木町は、江戸初期に干拓で造成された。吉田新田と命名された干拓地は、江戸期に食料供給地としての役割を担う。明治期に入ると、繁華街に変貌。そして、戦後も横浜のにぎわいを牽引する中心的な街として存在感を強めている。
他方、関内は干拓ではなく埋め立てによって造成された。そして、日本人と外国人が貿易交渉をする開港場に関内があてられる。関内で輸入品・輸出品が取引されたことから、隣接地の山下地区や山手地区に外国人が滞在・居住する居留地が形成された。
当初は野球よりもクリケットやテニス
幕末から発展を遂げていた開港場・関内では、1866年に大火が発生。これにより開港場内の遊郭が焼失した。再建計画で、遊郭は移転。跡地には、公園が整備される計画が立てられた。遊郭焼失後の関内再建計画を主導したのは、イギリス・スコットランドから来日したお雇い外国人のリチャード・ヘンリー・ブラントンだった。ブラントンは横浜の近代下水道を整備した人物として称えられるが、ブラントンの関内整備計画は下水道だけにとどまらなかった。
スコットランド出身のブラントンには、公園内に野球場を建設するアイデアはなかった。また、横浜で働いていたお雇い外国人の多数もイギリス出身者だった。関内周辺では、休日になるとイギリスの国技とされるクリケット、テニス、競馬を楽しむ外国人が目立った。関内から近い根岸に競馬場が開設されたのも、関内・山下・山手に競馬発祥の地出身のイギリス人が多かったことを物語る。
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