縄文人に「上下意識」があまりなかった理由

他者も自分も区別しない、という生き方

彼らも人間だからいろいろと思うこともあったはずだ。腹いっぱい思う存分肉が食いたいと思うことも、そりゃあ、あるだろう。だからといって、独り占めしてしまえば、ほかに飢える人が出る。だったらそいつが自分で仕留めればいいじゃないか、と思うが、人には運がいい時も悪い時もある。今日はたまたま最後の一撃を放ったのが自分だったけれど、次は違うかもしれない。その時、その人が独り占めしてしまったら今度は自分が飢えることになる。お互いさまなのだ。

血縁によって営まれる集落が多数だったとは思うが、個よりも共同体。そんな人の営みがあった時代だったのではないか。

どちらが上とか下とかいう意識はなかった

他者と自分を区別しない、という感覚は人間同士にだけ適用されたわけではない。

縄文人はすべてのものに命が宿ると考えていたとされる。これは、縄文人に限らず、世界中の狩猟採集民に多い世界観である。人間も動物も植物も、果ては土器だろうが石器だろうが、すべてのものに命が宿っていると考えた。だから彼らは、土器や石器が持つ「道具としての役割(命)」が終わったとき、それらに感謝の意を込めて廃棄の祭りをしたとも言われる。

貝塚はその一例と言っていい。以前は縄文人たちが食べた物を捨てた「単なるゴミ捨て場」だと考えられてきた。しかし、よくよく貝塚を観察してみると、食べ物のカスは当然ながら、縄文人骨もあれば縄文犬の骨もあるし、割れた土器もあれば土偶もある。さまざまなモノが渾然一体となって貝塚を構成していることがわかってきた。

ということは、貝塚というのはただのゴミ捨て場ではなく、命がついえたものの、送りの場(天に命を送り返す場所)だったのではないかと見解が変わってきている。

冒頭で、縄文人たちの仕事には今の私たちが思うほど、男女の区別が明確にはなかったのではないかと書いた。身体的に能力が違うという点で男女の仕事の区分はあったと思うが、それ以外の感覚として、どちらかの存在が劣っているとか上とか下とかという意識などみじんもなく、彼らが生きる世界では、男女はもちろんのこと、すべての存在が同じ命あるものとして等しくあったのではないだろうか

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