「世界の奇跡」日本の天皇が滅びなかったワケ 皇室を葬った中国と、守った日本の大きな差
清は末期症状のなか、極端な財政難に耐えられず、1911年、幹線鉄道を国有化し、鉄道を保有する民族資本家からこれを没収して財政不足に充てるという強硬手段に出ます。民族資本家は清に怒りを爆発させ、四川で暴動、武昌で蜂起し、辛亥革命となります。彼らは南部地域一帯で、清からの独立を宣言し、南京で孫文を臨時大総統に選出して、中華民国を建国しました。
2100年続いた中国皇帝制は終わった
しかし、清王朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命し、革命の鎮圧を命じます。中国北部で軍事力を有していた地方豪族の軍閥という勢力があり、袁世凱はこの軍閥の領袖でした。彼は大軍を率いて、南京にやってきます。
袁世凱は清の体制内部の要人でありながら、清の命運は長く持たないと考え、新しい中華民国の総統になるほうが得策と判断し、革命派と取引します。袁世凱は「私が清の皇帝を退位させることを条件に、私を中華民国の大総統にせよ」と要請しました。
孫文ら革命派は袁世凱の強大な軍を前に、この要請を受け入れざるをえませんでした。しかし、皇帝を退位させ、清王朝を名実ともに終わらせることができるのは大きな前進と捉えました。
大総統になった袁世凱は宣統帝溥儀を退位させ、1912年、清は滅亡しました。こうして、彼ら中国人は秦の始皇帝から約2100年続いた皇帝制と訣別したのです。
ちなみに、中国史上に登場した皇帝は600人以上にのぼります。中国において、皇帝制を葬るために戦ったのが孫文ら民族主義勢力で、皇帝制を葬ったのは袁世凱ら清王朝内部で特権を享受していた軍閥勢力でした。つまり、清王朝は外から仕掛けられて、中から壊れたと言えます。
宣統帝の退位により、皇帝制は終わりましたが、皇帝制とともにあった封建政治は温存されました。袁世凱が政権を握り、軍閥や封建諸侯の特権を保証しながら、孫文ら民族資本家勢力を弾圧しました。孫文らは強大な軍事力を誇る彼らの敵ではありませんでした。
皇帝制崩壊により、共産主義が急拡大
袁世凱は野心をあらわにします。1915年、皇帝に即位し、国号を中華民国から中華帝国に改めます。年号を洪憲と定め、洪憲皇帝を名乗ります。
何の血統の正統性もない者が突如、皇帝になったことに当時の日本をはじめ、世界各国は驚きましたが、中国では易姓革命の伝統があり、血筋に関係なく実力者が皇帝になってきたので、袁世凱自身、自分が皇帝になるのは当たり前だと考えていました。しかし、袁世凱に対する中国国内から反発は強く、彼はわずか3カ月で退位しました。そして、間もなく、失意のうちに病死します。
袁世凱が病死した後も、軍閥勢力と孫文ら革命派との対立は続き、近代革命は進展しません。第1次世界大戦後、北京の学生が中心となり、五・四運動という反帝国主義運動を展開します。民衆の政治への関心の高まりを感じた孫文は以後、民衆を取り込み、革命勢力を形成する方針をとります。孫文はそれまで、エリート主義的なブルジョワ革命を目指してきました。しかし、この考え方を変え、民衆全体を取り込み、革命を推進していこうとしたのです。
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