「ボヘミアン・ラプソディ」現象化への違和感 クイーンは愛すべき「変なバンド」だ
先日、電車に乗り合わせていた20歳前後と思しき女性2人が「クイーンの映画は~」と話しながら映画館のある駅で降りていった。仕事仲間の大学生からも「見た」「見に行く」という声が聞かれる。筆者の母(喜寿)も「話題みたいだから」と見に行った。
民放の情報番組、NHKの平日夕方枠でも大きく紹介されているのも目にした。音楽雑誌だけでなく、写真週刊誌でも特集が組まれている。SNS上での盛り上がり方もかなりのもの。現代版口コミとしての説得力は誇大宣伝込みのマスコミよりも高いのだろう。
プログラムは一時的に品切れとなり、CD各種も在庫切れ、レンタルCDも貸し出し中が続くなど、関係者の予想をかなり上回り現象と化している『ボヘミアン・ラプソディ』。筆者も劇場で本作を大いに楽しんだ。しかしこれほどの「絶賛の嵐」には疑問を感じている。
クイーンではなく「フレディ・マーキュリー」
本作は「クイーンの」ではなく「フレディ・マーキュリーの」映画であると言っていい。だいたいエンディングロールでフレディ・マーキュリーに続いて登場する名前が、クイーンのメンバーであるブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンではなく、フレディの恋人で友人であるメアリ・オースティンなのだから。
中には「史実と違う!」とアツくなっている人がいるが、この映画はドキュメンタリーではない。時系列や細かい事象が違うことに過敏になると楽しめない。フレディ役のラミ・マレックが小柄であること(逆にフレディの足の長さに気づかされる)など突っ込みたくなるポイントもあるかもしれないが、おそらく途中からそれらは気にならなくなる。それはスタッフとキャストの「クイーン愛」が伝わってくるからだ。それが、本作が「ア・カインド・オブ・マジック」を持つに至った要因なのだろう。
だが、こういう現象が起こるといつも疑問に思うのは周りの過剰な騒ぎ方だ。「感動!」「泣いた!」などというもろ手を上げた絶賛の声ばかりを聞いているとどうも居心地の悪さを感じる。
無名だった青年の苦労、「夢はかなう」的な成功、そしてそれと引き換えの孤独、別離、それを乗り越えての悲劇的な最期を覚悟した結束という、どのジャンルの夭折した成功者にも当てはまりそうなツルンとした美談として、本作そしてクイーンを語る傾向が強まった気がするのだ。
あの頃、クイーンはそんな扱いのバンドじゃなかったのに。
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