トランプ誕生は「1960年代からの必然」だった 「政治学の巨星」パットナムが語るアメリカ
さらにグーグルのNgram Viewerというツールを使ってみると、面白いことがわかる。これは、書籍に含まれる単語を検索できるツールで、これを使えば、どの時点でどんな単語が多く使用されているかを調べることができる。
「私たち(We)」の時代から、「私(I)」の時代へ
たとえば、andやtheといった単語を調べると、時代が経っても使用頻度に大きな変動がなかった。
ところが、I(私)という言葉とWe(私たち)という言葉には変動があって、1965年以前にはWeという言葉が多く使われていたのに、1965年を境に、Iという言葉の使用が大きくなっているのだ。これは私たちが、全体ではなく、自分だけを気にかけるようになってきた証左だと思う。
私が育ったポート・クリントンでは、私たちの世代の頃は、まだ機会の平等が残っていた。どんな人も、頑張れば差はあっても満足のいく人生を歩むことができた。ところが今はそうなっていない。機会の不平等が固定化している。
両親が大卒で子どもも大学で学んだという家族は、成功した家族だと思う。多くの家族や子どもたちがそうした成功を目指している。私の家族もそうだった。私の子どもたちは大学教育を受け、7人の孫たちはインド、アメリカ、南アフリカ、イギリス、コスタリカなどに住み、それぞれの人生を生きている。
個人としては、幸せに恵まれたと言えるのだが、社会科学者としては、思うところがある。機会の不平等が固定化している社会では、成功した家族の存在は、そういう機会に恵まれなかった人たちとの、格差の拡大を助長しているのではないかという思いが生じるのだ。
「過去はプロローグである」という言葉がある。シェイクスピアがその作品の中で使った言葉だ。私たちが生きている今は、未来に生じる出来事の始まりを規定するということだ。どんな未来を創るか、それは今を生きる私たちにかかっているとも言える。
私は今を、メリー・スーのような怒りを持つ人の少ない、機会の平等が担保された時代の始まりにしたいと思っている。Iの時代が終わり、Weの時代への転換点となった時期にしたいのだ。
そのようなことは可能なのだろうか。私は楽観主義者であり、可能だと思う。そのヒントもまた過去にある。1860年頃の南北戦争を境に、アメリカはIの時代に入っていた。この頃、ロックフェラーなどの財閥が強大化し、格差も広がっていた。それが反転したのが1900年前後のことだ。
この時反転のきっかけとなったのが、高校教育が開かれたことだ。ソーシャル・キャピタルのレベルが高かったアイオワ州やカンザス州で、豊かな家庭の子どもたちだけでなく、誰もが高校教育を受けられるようにしたのだ。これは、連邦政府の主導で始まったものではなく、草の根から自発的に始まり、大きな改革運動になった。
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