それから会社を辞めてしまった。どこに引っ越せとか、わけのわからないことを言われていました。投資用でも何でもないマンションを地方に買ったのも、そのおばさんに言われたのかもしれません。洋服や輸入家具など買い物もしまくっていたし、暇だから夫婦そろってあちこちに遊びに行ったりして。そんな生活が数年続きました」
伯母の最期の言葉は「お金」だった
気になるのは、お金の出どころです。勤務中の事故ですから、労災や退職金はしっかりと下りたでしょうが、とはいえそんなに使って足りるのか? 従姉妹と芙海さんの3人は、比較的学費の安い学校とはいえ小学校から私立に通っており、そこまでの余裕はなかったと考えられます。
もしや、母の遺産に手をつけているのでは? 芙海さんは不安でしたが、仲のよかった叔母(母親の妹)も、祖父母も、誰も伯母夫婦に母のお金のことを聞けずにいました。伯母夫婦が芙海さんの面倒を見ているのは事実で、みな遠慮があったようです。
高校を卒業した後、従姉妹も芙海さんも短大に進みます。当時、芙海さんの周囲には「女の子はいいおうちの人と結婚するのが幸せで、4大など出ても仕方がない」という風潮があり、また伯母夫婦の経済状況を察しても、短大進学が自然な選択肢だったのです。
厳しいものの、比較的うまが合った伯父の影響もあり、芙海さんは海外留学を希望していましたが、短大時代は叶いませんでした。勇気を出して伯母に「母が遺したお金が残っているはずだ」と尋ねましたが、「そんなことを聞くあなたは、はしたない」「恩知らず」となじられ、伯父に相談しても「行きたければ、自分の力で行け」と言われたそう。
新卒時の就職活動はあまりうまくいかなかったものの、やりたいことがはっきりしていた芙海さんは、その後、転職しながらキャリアを積み、仕事に邁進していきます。30歳になる前には伯母夫婦の家を出て、1人暮らしを始めました。
伯母が病気で急死したのは、それからしばらくしてからのこと。宗教にはまり財産を失った後、伯父も伯母もそれぞれ仕事を始めていましたが、買い物ざんまいの生活は変わらなかったようです。亡くなったとき伯母のカードには多額の借金が残っていました。
一度、芙海さんが病床を訪れた際に「欲しいものある? 買ってくるよ」と尋ねると、「お金」と答えたのが、伯母の最期の言葉となったそう。
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