当時の三井財閥は、三井合名という同族経営の合名会社が、三井鉱山、三井銀行、そして三井物産という株式会社を傘下に収める持株会社であった。
三井合名は、三井家が徳川時代から展開していた巨大なビジネスを、明治商法の枠組みに矛盾のないように引き継ぐために創設された持株会社という側面を持っていた[1]。一族のビジネスを一族の共有財産に見立てる仕組みとして、持株会社を無限責任(債務者の全財産が債務の担保となる責任)の合名会社としたのである。
三井合名の傘下企業は、それぞれの関連産業の株式会社を買収していった。三井鉱山であれば、松島炭鉱や北海道炭礦汽船を傘下とした。これは産業内シェア拡大によるバリューアップを図るロールアップ戦略の帰結であった。さらに三井鉱山は日本製鋼所も傘下とした。
言うなれば、財閥内部に参加者限定のプラットフォームを抱え込むことでB2Bを拡大したのである。
財閥における所有と経営の分離
財閥は傘下企業従業員を顧客として迎えるかたちで、内輪ながらもB2C(business to customer)をも創出した。顕著な例は生命保険業である。
三井であれば高砂生命、住友であれば日之出生命を買収して、それぞれ三井生命・住友生命として再建が図られた。こうした生保会社を取得する際に既存の傘下企業の従業員に保険契約を結ばせていた。
それは多くの傘下企業とその従業員を従えた財閥だからこそなせる技でもあった。旧・高砂生命と旧・日之出生命は、いずれも三井生命・住友生命と生まれ変わることでV字回復を実現している(参考1、参考2)。
ここで前出の例え話を思い出してほしい。分散投資であれば、その戦略自体がひとつのリスク・コントロールとなる。これに対し、財閥持株会社は積極的に経営に参与することでリスクを軽減するという手法であったといえる。コストがかかる一方で、より大きなベネフィットを狙った戦略ともいえる。
株式会社におけるコーポレート・ガバナンス(企業統治)のあり方をめぐっては、経済学では「所有と経営(コントロール)の分離」から議論をスタートする。「所有と経営(コントロール)の分離」とは、プロジェクトに関する役割分担のことだ。
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