失明を乗り越え、パラリンピック目指す起業家 初瀬勇輔 ユニバーサルスタイル代表取締役
絶望する自分を支えてくれた親友
初瀬は1980年11月28日生まれの32歳。母子家庭に育ち、長崎県の青雲高校を卒業。弁護士を夢見て東京大学法学部を目指したが、浪人1年目に若年性緑内障を患い、右目の視力のほとんどを失った。そのハンデを乗り越えて3浪して中央大学法学部に入学を果たしたものの、大学2年のときに今度は左目の視力を喪失。人生に絶望感を味わった。
その初瀬は、「多くの人に助けられて今の自分がある」と振り返る。
左目の視力を失い、途方に暮れていた初瀬に声を掛けたのが、磯招完(あきひろ)さん。福岡での予備校時代からの親友だ。「福岡市内の病院で退院までつきっきりで世話をしてくれたうえ、東京に出てきて大学の履修課目の選定や障害者手帳の手続きまでしてくれたのが彼です。春休みのすべての時間を使って、視力を失った僕に寄り添い、励まし続けてくれました」(初瀬)。
大学では、同じく予備校時代からの友人だった池山晋也さんが、卒業までの2年間にわたって、支え続けてくれた。「朝は大学近くのモノレールの駅で待っていてくれて、帰りは駅まで手をつないで連れて行ってくれた。自宅に来て、郵便物を整理してくれるなど、何から何まで助けてくれたのも彼でした。池山君の存在なしに大学を卒業することはできなかったと思います」(初瀬)。
視力を失った初瀬に「もう一度柔道をやってみたら」と声をかけたのは、大学時代の交際相手の彼女だった。大学4年になり、周囲の友人が次々に就職を決めていく中で、初瀬はひとり焦燥感を強めていた。そのときの彼女の一言で、初瀬の目の前が一気に開けた。目指したのは全日本視覚障害者柔道選手権だ。
「柔道は中学・高校の6年間やっていたのですが、視覚障害者柔道はルールもわからないし、目が見えずに戦う怖さもあった」と初瀬は語る。それでも、高校2年のときに長崎県大会3位になった実力が物を言った。優勝して皇太子殿下からお言葉をかけていただいたときには、「勝つとはこういうことなのか」と、言葉に表せない誇りを感じた。その場でフェスピックの日本代表にも内定した。
視覚障害者柔道で日本の頂点に立った初瀬でも、就職の壁は分厚かった。「100社以上にエントリーシートを出したのですが、面接にたどりつけたのが2社、内定をもらったのはわずか1社でした」。ただし、初瀬に手を差し伸べてくれた1社が新たな可能性をもたらしたのだから、初瀬には運があったと言っていい。
入社したのは、大手人材派遣業テンプホールディングスのグループ企業で、障害者を専門に雇用する特例子会社だった。そこで、知的障害を持つ多くの社員とともに働いたのが、今につながる大きな財産になった。
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