世界レベルで「大学が崩壊している」根本原因 研究機関は本来、天才を「飼っておく」場所だ
施:大学改革をめぐる議論の中で、「人文学が危機にさらされている」という声をよく聞きますが、欧米でも同じということですね。アメリカの政治学者パトリック・J・デニーンという人が今年出した『リベラリズムが失敗したわけ』(Why Liberalism Failed)という本があります。この本でも、著者のデニーンは同じようなことを指摘しています。
新自由主義的に解釈された現代のリベラリズムは、皮肉なことに「リベラル・アーツ」を、つまり人文学的な教養教育を大学教育からなくそうとしていると批判します。「リベラル・アーツ」は、人が自分自身を陶冶し、古典的意味での自由な人間、つまり刹那的欲望に負けない自律的な人間となるために必要だとかつては考えられていました。しかし、日本もそうですがアメリカでも、稼げる人間を作り出すことが近年、大学の第一目標となり、人文学的な教養などいらないというふうになってしまっているというのです。
なぜ近代合理主義が大学を攻撃するのか
藤本:近代の大学のルーツは、一般的には、神学を中心とした中世ヨーロッパの大学にあるとされています。教授会などのギルド的な「大学の自治」の源流は、中世にまでさかのぼることができる。ただ、現在の大学の問題を考えるには、大学の理念のベースが、神学から近代啓蒙思想へ移ったという変化を見逃せません。すなわち、人間の理性の進展が学問の中心になっていくという変化が重要だと思います。
中野:僕には1つ疑問があったんです。今の大学改革に影響を与えている新自由主義は、まさにマックス・ウェーバーの言う近代合理主義の権化といっていい。大学の成果をランク付けして視覚化し、数値目標を与えて達成させようというやり方がそれです。しかし大学が理性の聖地であるならば、なぜ近代合理主義が大学を攻撃するのか。
しかし、藤本さんのお話を聞いて、むしろ逆の議論もありうると感じました。つまり大学の諸制度には中世から続く要素が色濃く残っており、近代合理主義の立場から見たときにはむしろ前近代的非合理の塊なのであって、近代合理主義者はこれを改革したいという衝動に駆られるのではないか。
佐藤:大学の成り立ちは宗教と切り離せません。アメリカのハーバード大学も、創立者の一人、ジョン・ハーバードにちなんで名付けられています。彼が遺言で、財産の半分と蔵書のすべてを大学に寄付したことへの返礼ですが、この人は牧師でした。もともと中世ヨーロッパでは、「あらゆる学問は神学の婢(はしため)」と言われたほど。神という超越的価値に奉仕すればこそ、世俗的な存在である国家の口出しを封じることができた。
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