過重労働に心を殺されないスキルは「表現」だ 30日連勤200時間残業…僕はペンを執った

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人はジョブだけでは生きられない。ワークがなくては早晩に心が壊れてしまう。何のために生きているのかを自問し、かつ回答が自分で導けない状況は、苦痛でしかないからだ。過酷すぎる労働のせいで回答を考える時間はおろか、自問する余暇すら得られないようならばなおさらである。

ジョブとワークを同一にできる人にとっては本書は不要の存在である。たとえば「病魔に苦しめられる人をひとりでも多く救いたい(ワーク)。だから私は医者(ジョブ)として働いている」という人を、無論私は否定しない。すばらしいことである。「善良な市民を苦しめる悪を許さない(ワーク)。だから私は警察官(ジョブ)として悪と闘う」という人を、当然私は尊敬する。立派だと思う。

しかし、誰もがそうやって働けるわけではない。あるいはより直接的に言ってしまえば……そうやって働かなければいけないわけでもない。子どもに夢を語らせる場面で、彼らの回答が総じて職業名になりがちな状況を見聞するたびに、危ないなと私は思う。夢(ワーク)と仕事(ジョブ)の同一化をあたかも強要するかのような状況は、かえって彼らの未来に影を落とすのではないか。

詩を詠みながら畑を耕して何が悪いのだろう? 好きな読書に精を出しつつ役所に勤めてどこに問題があるのか? ワークとジョブが重ならなくとも人は幸福に生きられる。

表現することで「ワーク」が見えてくる

そして、ワークとジョブを同一にせずとも楽しく生きられる方法論を提案するのが、より正確に記せばジョブを持ちつつ、生きる楽しさや、人生は苦しみだけではないことを自覚できるような、ワークを探そうと呼びかけるのが、『労働者のための漫画の描き方教室』の主題である。

ワークの探し方のひとつとして有効だと私が考えるものが、表現という行為である。表現はごく一部の特殊な能力を持つ人間の行為と思われがちだが、そんなことはない。資格や特技がなければ表現をしてはいけないわけではない。誰がやってもよいのである。

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