日本人が知らないあの「ロブション」の素顔 日本から学んだフランス料理界の巨匠

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1960年代の厳しいフランス料理の世界で頭角を現したロブションは、日本の厳しい厨房のしきたりに馴染んでいた。同じレストランで働いていた何人かの従業員によると、かつてロブションのレストランで働く日本人シェフの1人がほかのシェフを平鍋で打って彼の腕を骨折させたことがあった。それでもロブションは、暴力を振るったシェフを解雇することなく、ただ別のレストランに異動させただけだった。

筆者はこの件について、彼に尋ねたことがある。すると、ロブションは、暴力は残念なことだったが、許される余地があると答えた。彼は多くの面で革新的であり、突出した才能を持つ人物だった。願わくはいこの「厨房における暴力」においても改革を成し遂げてほしかったが、ここに手をつけることはしなかった。

三つ星シェフ31人をもてなした伝説の夜

2014年、ロブションは自身のレストランで起きた日本人シェフによる暴力についてフランスのフードサイト「アタビュラ」から攻撃されたことがあった。非常に厳しい社会的なバッシングを受けた後、彼はその編集長と自身の店で面会した。そのとき、ロブションはけんか腰で挑むのではなく、この問題について何時間も討論し、徐々に停戦状態にもっていった。彼らはその後も連絡をとり続け、議論を続けたという。

ロブションが亡くなった際、この編集長は彼の微妙な感情を表す独特の文章で追悼記事をしめくくった。「僕は君のことが大好きだった……んだろう?」。

2007年11月19日、ミシュランガイド東京版が発売された夜に、世界で最も有名なシェフたち(その中には多くのフランス料理のシェフがいた)が、東京に集まった。筆者はその場で取材していて、こう考えていた。「彼らが一堂に会してディナーを食べるとしたら、このすばらしいシェフの集団を満足させられる腕を持つ『シェフの中のシェフ』は一人しかいない」。その日の夜、ディナーは六本木のラトリエで開かれた。

その夜、天才的なチェスのチャンピオンのように、ロブションは同時に31人の三つ星シェフのために料理の腕をふるった。彼が毅然とした態度で微笑みながら、すばらしいシェフたちや客へと歩いていくのを見て、私は「今自分はオリンポス山にいて、この人はジュピター神で、ほかの神々に料理をふるまっているのだ」と思った。

そんなことを考えていると、ロブションは筆者に「元気かい、レジス」と尋ねた。この夜のメニューは今でも額に入れて私のキッチンに飾ってある。日本政府に例外的にフランスと日本の二重国籍を認められうる人がいるとすれば、それは彼だ。それくらいたぐいまれなる人物だったのだ。

レジス・アルノー 『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員

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Régis Arnaud

ジャーナリスト。フランスの日刊紙ル・フィガロ、週刊経済誌『シャランジュ』の東京特派員、日仏語ビジネス誌『フランス・ジャポン・エコー』の編集長を務めるほか、阿波踊りパリのプロデュースも手掛ける。小説『Tokyo c’est fini』(1996年)の著者。近著に『誰も知らないカルロス・ゴーンの真実』(2020年)がある。

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