曲直瀬道三が日本医学「中興の祖」である理由 「医」で日本を制した戦国名医の功績
山崎:道三は、まず患者に向き合い診察し、そのうえで病態を決め、処方薬を決める、という3段階で医療を行いました。今で言う「エビデンスに基づく医療」ですね。また、陰陽五行説をはじめとする基本的な医療理論もしっかり持っていました。このように、理論があるので弟子も育てることができた。教科書があるので門人も育てやすかったのですね。
学問としての医学を確立
秋葉:おっしゃるとおりです。門人を育てるには、良いテキストが必要です。道三はそれを意識していたでしょう。おそらくは田代三喜の影響が強くあったのだと思います。
山崎:道三が著した『啓迪(けいてき)集』『雲陣(うんじん)夜話』『切紙』といった医学書が今でも残っていますよね。これらの理論を持って、しっかりと門人を育てたんですね。
秋葉:当時の医案がいくつか残っていまして、医案というのはカルテですが、医学の名家といわれるところの医案を見てみると、当を得ていない治療が相当に行われていたようです。一方、道三の診断は的確で、処方も当を得たものでした。
山崎:道三は「啓迪院」という、民間の今で言う医科大学をつくったんですね。これも大きな功績だと思います。
秋葉:そこで初めて律令制度の中の「典薬頭」だけがいわば医師を育てることができるという制度が崩れたわけです。官の制約を離れたところで大学をつくって、そこで医生を養成したんですね。
ちょうど時あたかも戦国時代で、みな覇を競っている。そうすると、日本全国あらゆる場所で医師が必要な状況にあったでしょう。道三は門人を育て、言ってみれば当時の最先端の医療知識を地方に届けたわけですから、貢献度は高いと思いますね。
山崎:当時、日本で行われていたものは民間医療がほとんどでした。
秋葉:そこに彼は大きな一石を投じて、新しい時代の礎を築いたわけですよね。高度な医療知識が一気に日本じゅうに広がったというのはすごく大きな出来事だったと思います。道三がつくった「啓迪院」がまさに「医の母校」になりました。