ブスと下衆が「枕草子」に出まくる深い事情 清少納言がぶった切ったのは誰だったのか

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しかし、平安時代にも当たり外れがあった。まったく懲りない源氏の君がその後同じような廃れた屋敷を発見し、無邪気な美少女を思い描いて、心がときめいたのも束の間。差し込む朝の光の中にいたのは日本文学におけるブスの代名詞、末摘花だったのだ。

貴族を中心とした絶対的な価値観を基に形成されていた平安文化においては、定められた範疇以外のものがすべて卑しくて見ていられない、という考え方が深く根付いていた。ポリティカルコレクトネスを重んじる今の世の中では、ありのままの自分を受け入れるという考え方が広がっているが、昔はそのようなクリーンな世界ではなかった。

美人を捨ててブスに走る男の気が知れない

そして、その文化を崇拝して雅な日常にどっぷり浸かっていた清姐さんが好んで何度も話題にしているのは「ブス」と「下衆(げす)」。今だったら触ってはいけないようなタブー、人を殺しそうなパワーを持つこうした言葉は、かなり強烈な段の中で繰り返し登場してくる。ちなみに、「下衆」というのは「身分の低い者」を指している表現で、その時代を生きた人たちからすれば貴族以外はみんな下衆である。

私は日本の血を1滴も引いていないので、間違いなくその部類に入るが、もし皇族と血がつながっていないのであれば、あなたも私と同じ下衆である。清姐さんの美意識にうっとりして、羨望のまなざしで見つめすぎたせいか、友達になった気分でいるときが多いが、片思いだったことをわきまえて、腹黒さ全開の段をいくつか紹介する。

253段 男こそ

男こそ、なほいとありがたくあやしき心地したるものはあれ。いと清げなる人を捨てて、憎げなる人を持たるもあやしかし。公所に入り立ちする男、家の子などは、あるが中に、よからむをこそは、選りて思ひたまはめ。およぶまじからむきはをだに、めでたしと思はむを、死ぬばかりも思ひかかれかし。人のむすめ、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでとも思ふなれ。かつ女の目にもわろしと思ふを思ふは、いかなることにかあらむ。
【イザ流圧倒的意訳】
男というものは、何を考えているかがさっぱりわからない。美人を捨てて、ブスを妻に選ぶというのはどういうことよ。宮廷に出入りしている人や名門の弟子は数ある女性の中で美人なほうを選べばいいのに。高嶺の花を狙いたいなら、死ぬ気でアプローチして燃え尽きるまで恋い焦がれればいいのに! 人の娘とか、まだ見たことない女性でも、美人だとうわさになっている人がいたら、その人こそ狙うというのは普通と思うでしょう! こっちからすればみっともない女に恋しちゃうなんて、いったいなんなのよッ!

うそをつけないというか、正直というか……。これだけでも十分強烈だが、まだまだ続く。

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