資本主義の問題は「結論を出さない」が重要だ 池上彰×丸山俊一「資本主義の闇」対談<上>
丸山:そう見ると本当に面白くて、アダム・スミス、マルクス、シュンペーター、ケインズ、みんな時代の文脈から一度引き離してテキストとして読むと現代的な意味が出てくるところがあるんです。彼ら天才と称される思想家の思考能力や目線の確かさもありますが、同時に、経済学を考えるということは、つねにパラドックスを越えていくことだと考えさせられます。
部分解に飛びつき疲弊する社会
丸山:池上さんがおっしゃったように、現代は、対処療法としてカンフル剤のようになんらかの理論を使いながら、皮肉なことにそのカンフル剤にマヒしていく社会ですね。「これが正解だ」と言われるとみんながそこに飛びついてしまう。けれど、飛びつくことによって、また自分自身が疲弊していく。局所的な病状にどんどん強い薬を投入したのは良いけれど、むしろ全身の体力を損ない、薬への中毒性を高めてしまうのにも似た状況です。
そうした構造を把握する目を持たなければ、資本主義というものは恐ろしい錯綜、倒錯を生んだまま走ってしまうでしょう。そこを感じて、僕たちもバランスを取ることを考えなければならないと思いながら番組を作ってきました。池上さんも、安易に正解を出さないとはおっしゃりながらも、なにかどこかで、そういったバランスを考えながら本を読まれているのではないですか?
池上:部分解というものについてたびたび考えます。リーマン・ショックが起きる前の債権の証券化なんてのは、あの時点においては非常に画期的で新しい富を生むものだとされていました。でも、それは部分的なものでしかなく、根本的なところが見えていなかった。バブルが崩壊して初めて、全体を見ることができていなかったとわかるわけです。
経済においては、部分解が出たときに、実は木を見ているけど森を見ていないのではないか、森から見ることが必要なのではないかと考えることが、歴史的・哲学的視点なのだろうと思います。特にいまは全体を見なければならない時代ですね。
丸山:池上さんのお話を聞いていて、ふと思い出しました。たとえば浅間山荘事件は、僕が小学校4年生の頃起きたのですが、当時多くの学生運動が「内ゲバ」という形で挫折していくニュースをよく目にした記憶があります。みんなもともとは善意を持っていたはずなのに、集まるとなぜか内ゲバで崩壊するというのは皮肉なものです。人間は集団になるとなぜ逆の方向へ走ってしまうんだろう、集団になった時に、本来目指したものから逆走する人間の性への恐ろしさが、もやもやと心の中に残りました。
経済現象にも、目的と手段が逆転するような錯綜する事態がよく生まれます。現代は、ネットがあって情報が拡散し、増幅していくなかで、皆が良かれと思って一方向に走ることが、逆に皮肉な事態を招きかねない時代でもあります。もちろん安易に解決法を提示することはできませんが、この感覚を多くの方と共有したい、提示したいという思いが僕の原点でもありました。
(後編は8月6日配信予定。構成:泉美木蘭)
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