ある日、オラチオにすばらしいチャンスが訪れた。知人の紹介で、アルゼンチンを代表するF1ドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオに会えることになったのだ。ランボルギーニ・カウンタックのようなクルマを作りたかった彼は、ここぞとばかりに熱い想いを伝えた。「イタリアでスーパーカーのデザイナーになりたいのです。ランボルギーニへ紹介していただけないでしょうか」と。
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彼の情熱にほだされファンジオは、早速、ランボルギーニのジェネラル・マネジャーに紹介してくれた。モータースポーツ界の伝説とも言えるファンジオからのプッシュがあれば怖い物なし、と感激したオラチオであったが、世の中そう甘くなかった。彼が訪ねた1982年のランボルギーニは倒産した後の政府管理下からようやく再建に向けて動き始めたばかりだった。
ジェネラル・マネジャーは、オラチオの腕を認めながらも、経営状態が安定するまでしばらく待つようにと指示したが、オラチオにとっては前進することしか考えられなかった。すぐに妻と共にアルゼンチンからイタリアへと移住し、テント生活をしながら入社の機会を懇願したという。情熱の人である。
ランボルギーニにおいて存在感を高めていく
無理矢理、ランボルギーニにもぐりこんだ彼だが、デザイン、FRPボディ製作、エンジニアリングなどクルマ作りのすべてにオールマイティな彼は、再建途中でマンパワー不足のランボルギーニでは大いに重宝された。今年、日本にも導入されたランボルギーニ初のSUV「ウルス」の祖先とも言える「LM002」や「カウンタック・アニバーサリー」などをすぐさま手掛け、頭角を現した。
また、チーフ・エンジニアと共に複合素材リサーチ室を作り、まだF1などにしか採用されていなかったカーボンファイバー素材の市販車への導入も図った。何事もとことん追求する彼は試行錯誤を重ね、ついには自力でカウンタックを一台丸ごとカーボンファイバーで作ってしまった。
そしてカウンタックの次期モデルであるランボルギーニ「ディアブロ」ではオラチオの手によるカーボンパーツがバンパー、エンジンフード、インテリアなど多数採用された。ランボルギーニはカーボンファイバー技術を重要な社のDNAとアピールしているが、その原点はオラチオにあったとも言えるのだ。
ランボルギーニにおいて存在感を高めていくオラチオであったが、彼の情熱はぶれることがなかった。理想のクルマ作りという夢に向かって、次のステップへと進んでいった。まもなく、オラチオはカーボンパーツ製造に特化したモデナデザイン社を設立した。ランボルギーニやフェラーリF1などのクライアントに対するサプライヤーとしてパーツ製造を請け負ったのだ。
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