「乙武がモテるなら俺だってモテる」の危うさ 「障害者」というグルーピングは変だ
2016年には「不倫騒動」もあった作家・乙武洋匡さん。この騒動を通して、子どもに障害のある母親たちから「希望が持てました」との声が寄せられたそうです。
なぜ母親たちは、希望を持ったのか――。
このエピソードから見えてきた、障害のある人への家族の影響について、乙武さんとリディラバジャーナル編集長・安部敏樹が語ります。
「同じ障害者の乙武がモテるから、俺もモテるだろう」
リディラバジャーナル編集長・安部敏樹(以下、安部):乙武さんの例の騒動、当然ながら多くの人は叩いたわけですけど、一方僕が取材したところで、「障害者にとっては希望の光なんです」みたいな話も聞きました。
男女の関係における倫理的な問題は別にして、「自分もいけるかもと思った」みたいな反応です。周りの反応はどうだったんですか?
作家・乙武洋匡さん(以下、乙武):これは本当に難しい話なので慎重に話しますけれども……。
まず、あれだけ日本全国民を敵に回したような状況の中、それがどんな理由であれ、肯定的なコメントが聞こえてくるというのは、当時の僕にとってはやっぱり多少の救いではありました。
ただ、そういう個人的な心情を抜きにして冷静に分析したときに、そういった言説に危うさも感じるのは、「乙武があれだけいけるなら、俺らもいけるんじゃねえか」というのは、そこに何の共通性を見いだしてるのかという話なんですよ。
同じ健常者の中でも、モテる人もいればモテない人もいます。「よし、福山雅治もモテてるし俺もモテるな」って思う健常者はおそらくいないと思うんですよ。それが、「よし、同じ障害者の乙武がモテてるから、俺もモテるだろう」と思うことを、疑問に思わないのかな、と。
「健常者だから云々」「障害者だから云々」と、そういったカテゴライズをしてひとくくりにした評価を下すのは非常に危ないな、と考えています。
恋愛だけでなく、どんなことであってもなるべく僕自身はカテゴライズをせずに、一人ひとりの違いというところに着目して議論をしていくよう自分なりに心掛けているんですけれども、「乙武がいけるから俺らもいけるだろう」というのは、そういった文脈からすると、ちょっと危険かなというのは一つ感じたことですね。