打ち切りへの反感が、次の番組への重しに
勢いがなくなってきて長期低迷傾向にあるとはいえ、いまだに同時間帯でトップクラスの視聴率を確保する「笑っていいとも!」。もちろん最後、打ち切りを周囲に迫られて外堀も内堀も埋められて無残な終わり方を強要されるより、カド番大関くらいの位置で“自主的な体面”を保ちながら番組を終わらせるほうが何かと格好はつくだろう。ただし、この後番組はよっぽど丁寧なマーケティングを心掛けないと、視聴者の総スカンを食らうおそれが高いということだ。
まず30年以上続き、人生の大半を同番組と一緒に歩んだ団塊ジュニアという人口のボリュームゾーンから、「面白くなく、たいして見ていなかったとはいえ、私の人生の一部」くらいの潜在的なロイヤルティを得ている番組であったため、保守的な民族性も相まって、この新しい番組に対する視線は好奇心と反感の入り交ざったものになるに違いない。
これは、コカコーラが大しておいしくなくても、コカコーラ社がロゴを変えたり味を少しでも変えたら、消費者から大反発を食らい、売り上げがガタ落ちするのと似た構造である。「笑っていいとも!」はすでにその番組自体が面白いかどうかではなく、視聴者の感情と強く結び付いた一大ブランドコンテンツになってしまっているのだ。
後継番組の司会者は、やはりグローバルエリート?
「笑っていいとも!」にグローバルエリートが一度も呼ばれることなく、終わってしまうことは遺憾でならないが、日本のテレビ業界の歴史をつくり、テレビ業界の象徴とも言える番組であった「笑っていいとも!」。テレビが全体的に勢いがなくなり、何かと面白くなくなったのも、「笑っていいとも!」の平均的クオリティの低下と連動していた気がする。
タモリさんに全面依存しすぎたフジテレビが、組織的に昼の番組の質を改善しようという能力と意思に欠けていたのかもしれないが、面白い次の番組の準備ができてもいないのに、とりあえず打ち切りを発表してしまった感も否めない。「笑っていいとも!」ほどの名物看板文化財ギネス番組を入れ替えるからには、そうとう作り込んだ重量級の自信作が準備できていないと、その副作用のブーメラン効果は極めて大きなものとなるだろう。
最後に再度申し上げるが、当番組の意義は面白いかどうかを超越した“国民的安心感”“無形文化財”的な位置づけにあった。むしろ、いつもそこにいるのが当たり前だったタモリさんが画面から消えることによって、当たり前の存在と思っていた親が急死するのとおなじような喪失感にさいなまれる視聴者も続出するにちがいない。
今までは水と空気とタモリはそこにあって当然、という雰囲気だったが、昼の12時にタモリさんが画面から消えることの喪失感は計り知れないものがあり、PTSDに苦しむお母さんやおばあさんが急増することであろう。このコラムを読んで、私の恐るべき先見性に驚嘆して後釜番組の司会としてグローバルエリートに白羽の矢が立てられたらどうしよう、と考えながら、それも悪くないかな、と思い直す、白昼夢にどっぷりつかったシンガポールの昼下がりであった。
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