「首相側近幹部」への権限集中が諸悪の根源だ 内閣人事局の「課題」と「処方箋」<後編>
しかし、官僚の世界では成果もコストも客観的に測ることは難しく、そうなると評価は「主観的」なものに近づかざるをえない。「あいつは頑張っている」とか「皆が褒める人物である」、「オレのために尽くしてくれる」といった主観的な判断のウェイトが増してくる。
官僚の世界だけではないが、「カネとヒトを握る」というのは、昔からある権力の源泉である。そして、その片方の「カネ」を握っていたからこそ、財務省、あるいは旧大蔵省は「官庁の中の官庁」と呼ばれていたのだが、最近の財政事情では、このカネを使った権力の行使の余地は小さくなっている。財政支出の6割近くが、「社会保障費」と「債務償還」という裁量性のない支出で占められている状況で、財務省が振るえる権力の余地など限られているのである。
他方、「ヒト=人事を握る」ことの意味は昔と変わっていない。つまり、内閣への人事行政の集約化は、財務省と並ぶ、あるいは、それを凌駕するような権力の源泉を創り出したのに等しいのであるが、それにしては、現行の制度・仕組みは粗雑であると言わざるをえない。
財務省の予算査定のプロセスは100年以上にわたって骨格を維持しつつ、細部の改善を積み重ねて練り上げられたものであるが、現行の内閣人事局による幹部人事の一元管理の仕組みは、生まれたばかりであり、予算作成プロセスに比べれば、あまりにずさんという事実は否定しようがないのである。
今の仕組みは短命政権を想定?
各省が省益優先に走るのを抑制し、公僕の原点に戻るよう官僚人事も官邸が管理できるようにすべきだという議論は1990年代からあったということは先に述べた。
他方、当時の反対論は、「政治的中立が求められている公務員人事を内閣が行うというのは、その中立性を侵害する可能性がある」、「各省の大臣の人事権、組織掌握力が弱まってしまう」といったものであった。ただ、その頃は、内閣に組織を作っても、結局、各省庁から上がってくる人事案を追認するだけで、どれだけ影響力が発揮できるかは疑問……といった懐疑的な見方も多かったように思う。その理由の1つは、そこまで強い求心力、統率力を発揮できた内閣は、過去それほど存在しなかったということである。
長く与党であった自由民主党の総裁任期は長い間2年(1978年 - 2003年の間のルール。2004年以降は3年)であり、かつ、連続2期が上限とされていた。したがって総理の在任期間は最長でも4年であり、多くの場合2年から3年で総理は交代してきた。
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