困っている人を助けない日本人の悲しい現状 いとうせいこう×中島岳志対談<後編>
中島:そうなんですよね。日本の場合、「葬式仏教」と揶揄するように言われています。でも、これは葬式に対する揶揄じゃないと思うんです。私がお坊さんによく言うのは、そういうふうに揶揄されるのは、まじめに葬式をやっていないからでしょうと。
いとう:なるほど(笑)。
中島:これはすごく重要で。大切だった人がいなくなった。しかしそこから、死者となった人と出会い直すプロセスがお通夜から始まるわけですよね。お通夜、お葬式があって、四十九日がある。そのプロセスをまじめにやっていないことが仏教界の大きな問題なんです。
いとう:四十九日に至るまであれこれと死者の世界で裁判があることになっているんですよ、天国に行くか地獄に行くかの。裁判の日に、生き残っている人が、亡くなった人のことを「いい人だったね」とか「ああいうところがあったね」と話し、それによって判決がくだされる。だから、初七日とか四十九日は生者が集まって死者のことを話す日なんですね。
だから僕は、みうらさんに「死んでからよく言われたいから、いいことするようにしている」と言ってるんですよ。これって、生活と仏教がいちばんよく交じり合った考え方であり、倫理だと思うんだよね。だから。寺やお坊さんには本気で送ってほしいですよ。
中島:そこで、盛り上がる。
いとう:そうそう!
生者だけが世界を動かしているのではない
中島:そこで盛り上がることが、死者を含んだ共同性になるということなんですよね。この共同性が失われると、国も未来も失われてしまう。そこに、いま起きている政治の問題の核心があると僕は本気で思っています。
いとう:おかしな話ですよね。伝統のことを全然知らない人たちが、「国家」とか「伝統」とか言ってるわけだから。これ、どうにかなるのかなあ?
中島:僕は、古くからあるそういう仏事をもう一回立て直したいとずっと考えています。すでに十分に伝統的な蓄積があるなかで、それをもう一回現代的にとらえ直す。場合によっては、大変楽しいものとしてとらえ直す。そうやって宗教的な公共空間をつくることは、死者の立憲主義や死者のデモクラシーにつながっていくんですね。
いとう:そのために、まずは、生者だけが世界を動かしているのではないという当たり前のことに気づくということですよね。
中島:そうです。投票は死者と未来の他者と一緒に行きましょうと。
いとう:最低3票は抱えている。過去と未来とふたり連れていると思ったら、投票の相手が違ってきますからね。
(構成:斎藤哲也)
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