困っている人を助けない日本人の悲しい現状 いとうせいこう×中島岳志対談<後編>
いとう:インセンティブありきの発想になってしまっていたんですね。
相互扶助の世界をどう作り直すか
中島:私は研究のためにインドで長く生活しましたが、インドはやっぱり宗教大国だと実感しました。良い悪い両面ありますが、それなりにおカネを稼いだら喜捨することを当然の義務だと思っている。イスラム世界でもワクフという喜捨を当たり前のようにやっています。でも日本では、その感覚がどんどん欠落してきているように感じます。
とすると、ヒューマニティや他者への献身という感覚を取り戻すためには、日本なりの宗教性を回復できるかどうかが大きな課題になってきます。そのとき、以前、いとうさんに相談したように、お寺や仏教を立て直すことが非常に重要なんです。
いとう:アナキズム的な側面も無視すべきでない。それは、相互扶助のネットワークを重視しているからです。神社仏閣は縁をつくると同時に、縁を断ち切るところでもあり、縁に深くかかわっている。縁によって寺でおカネが発生して、経済が動くことになった。僕は、このこととヒューマニティが結びつくような気がしています。
上に釈迦がいるということもさることながら、隣に住職がいるから相互扶助ができて互いに助け合う。いまの社会は助け合わない社会だから、行き詰まってしまった。だから、現在の政権的なものの逆は、実は相互扶助なんじゃないかと考えているんです。相互扶助の場を増やすことが、経済や人間とのつながりを立て直す動きがたくさん出てくることにつながるに違いないと。
中島:仏教って、縁の問題をよく考えていますよね。有縁無縁という二元論があり、人の絆や共同性というものは有縁の世界で、基本的に人間はがんじがらめにされている。それに対して仏教は、駆け込み寺のように無縁という世界をもうひとつ作っている。歴史学者の網野善彦が『無縁・公界・楽』(1978年)で描いたのが、そういう有縁の世界でがんじがらめになった人間にとっての自由を保障するアジールの空間、無縁空間としての寺でした。だから、無縁は仏教にとっては悪い言葉ではなくて。「無縁の大悲」という言葉があるように、仏の慈悲はいろんなところで無限に響き合っていると考える。
いとう:「差別はないですよ」ということだよね。
中島:そうです。有縁に対する無縁は「無限の縁」ぐらいの意味でとらえたほうがいいんですよね。お寺に行くことによって世界が開かれる。こういう縁の世界を作り直していくことが必要だと思います。