死者をないがしろにする日本はおかしすぎる いとうせいこう×中島岳志対談<前編>
いとう:そう、つながっているんです。なぜ、いまの日本が死者をないがしろにしているかといえば、死者の声をイデオロギーで覆ってしまったからだと思います。『先祖の話』には、イデオロギーは出てこない。さらに重要なのは、肉親じゃなくても先祖になれるということです。南方戦線などで死んだ若者たちの魂をどうしたらいいのか。あんなに遠くからは帰ってこられない。そこで、戦死者を先祖にするために、死者の養子縁組を提案するんですよね。
だから先祖というのは血縁の問題じゃない、民族の問題ではないと、柳田は言っているわけです。かつてはそれが日本の伝統だったのに、そこに余計な「国家」というイデオロギーを入れて、死者を奪い取ってしまった。3・11の後も「絆だ」「みんな我慢しろ」と、政治的にいいように扱われてしまった。死者がちっとも倫理的に解放されないわけです。でも死者を倫理的に解放しないことは、私たちがこの列島で生きてきた文化を、まるっきり捨てることになってしまいます。
中島:そうなんです。だから死者という存在は、現代政治という自分のフィールドにも、ものすごく大きな意味があると、3・11後から考え始めたんです。それが「死者の立憲主義」という考え方です。いまでこそ、安保法制がきっかけで立憲主義は重要だと言われるようになった。でも、立憲主義という考え方は、戦後の憲法学ではあまり強調されてこなかった。なぜなのか。僕は死者を忘れていたからだと思っています。
憲法学的な考え方でいえば、「民主」対「立憲」という対概念があります。立憲民主党という党名がありますが、「立憲」と「民主」には、実はすごい緊張関係がある。民主的に選ばれた政府は非常に大きな権限を持つ、というのが民主制の基本的な考え方です。対して立憲は、いくら民主的に選んだ政府でも、憲法上、いろんな制約があると考える。
戦後民主主義は、どちらかというと民主のほうが上位概念であると考えてきました。つまり、国民の投票で選ばれていない裁判所の決定や判断よりも、選挙によって当選した国会議員の決定や判断を重視すべきだと考えてきた。