死者をないがしろにする日本はおかしすぎる いとうせいこう×中島岳志対談<前編>
中島:この考え方に基づくと、民主的に選ばれた権力者の暴走を止めることが難しくなる。そのツケであり、最大の徒花(あだばな)が、民主的に選ばれたことを根拠に強権を振りかざす安倍内閣の暴走でしょう。そう考えたとき、戦後民主主義の問題点は、民主の範囲を生きている人間だけで閉じてしまったことにあると思うんです。それに対して立憲の主語は、むしろ死者たちです。憲法は、死者による権力に対する制約であると同時に、民主主義の暴走に対する歯止めなんですね。
死者の立憲主義と死者のデモクラシー
いとう:死者の立憲主義を大切にすることは、死者の民主主義を想像する、つまり死者にも一票があると考えることですね。その一票に耳を傾けるために、立憲がある。憲法という決まりをプリズムのようにして過去の声を聞き現在を考え、未来へつなげていく考え方が、死者の立憲主義ですよね。民主だけでは、現在生きている人たちだけの票数で「過半数だからいいでしょう」と、過去の声を聞かずに物事が決まってしまいますから。
中島:おっしゃるとおりなんです。本にも書きましたが、イギリスの作家G.K.チェスタトンは『正統とは何か』という本の中で、死者に墓石で投票してもらおうと言っています。もちろん死者は投票できないけれど、彼が言いたいのは死者のまなざしを浴びながら投票に行けということです。この死者のデモクラシーが、現代政治においてはきわめて軽視されてしまっていると思うんです。
いとう:いまの政治が死者を忘れてしまっている背景を考えると、中間勢力が解体していったことが大きく影響しているんじゃないですか。労働組合は本来、自分たちの賃金のことだけでなく、社会に対して意見をいう組織でもあったわけですよね。それがいつの間にか春闘だけになってしまった。自分たちの給料や安定しか考えない。だから労組が「東電守れ」と言うわけですよね。本当は、社会の倫理的な問題を考えなければならなかったはずの人たちが考えなくなっている。そうした状況を目にして僕は、変なことになっちゃったなあと思っています。
かつては、日教組(日本教職員組合)をはじめいろんなタイプの中間団体があって、それぞれが知らないうちに死者のことを考えていたはずです。この国を倫理的に、民主的に今までと違う形にしようと思ったとき、彼らの近くには第2次大戦の死者がたくさんいた。関東大震災のときの死者もすごく身近だった。だから彼らが倫理の問題を考えるのは当然だった。
そこからある年数が経つと、こんなにも忘れるものなのかと驚きます。しかも3・11でもう一度、死者の問題が明らかに立ち上がっているにもかかわらず、一気に逆張りになってしまった。立ち戻らなきゃいけなかった死者のことは顧みずに、いま生き残っている生者が生を満喫することばかりに邁進している。それにはやっぱり株価が上がったほうがいいだろうということになってくる。死者の立憲主義とは真逆のことが起きているんですよね。
中島:ほんとうに僕たちは非常に深刻なところに立っています。おっしゃるように、3・11を経たにもかかわらず、アベノミクスを抱きしめ、日経平均を抱きしめている。過去や未来に耳を傾けない、「現在」の利益だけの世界になってしまっているんです。だから安倍政権と異なるオルタナティブな政治は、死者を含み込んだデモクラシーや立憲主義のステージをつくらないといけないんです。
(構成:斎藤哲也)
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