150年目、「明治維新」が問い直される根本理由 保阪正康氏が語る「賊軍」側からの見直し
――薩長史観には、見直すべき誤りがあるのでしょうか。
幕末に幕府が、意外に現実的な開国策や近代化策をとっていたことはもっと評価してもいいのではないでしょうか。薩長は「攘夷」を掲げて政局を動かし、そのくせ権力を奪取した後はあっさりと「開国」に転じています。
また、何よりも旧幕府側を「賊軍」として貶(おとし)めたことは見直すべきかと思います。とくに会津藩などは、賊軍の筆頭として討伐され、徹底的に蹂躙されました。しかし、史実を見れば明らかなように、会津は、律儀に天皇に忠誠を尽くして職責を果たしただけだったのです。謀略に明け暮れた長州や薩摩にくらべ、純粋に「尊王」藩だったという見方もできます。
旧幕府側にも正義はあった
――天皇も会津に対して絶大な信頼を寄せていたようですね。
孝明天皇は長州を避け、会津藩主の松平容保(かたもり)を深く信頼していました。このため孝明天皇は毒殺されたという説がささやかれているほどです。
一方、薩長は、天皇を「玉(ぎょく)」と呼び、おさえて利用しようとするきらいがあったように思います。
鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」が出たことにより、旧幕府側は戦意を喪失するわけですが、そもそもこの「錦の御旗」は薩長が作った偽物だともいわれています。同様に「討幕の密勅」も偽勅だったようです。薩長は自らの権力奪取のため、徹底的に天皇の権威を利用したともいえるわけです。
――「賊軍」とされた側は、明治維新以後も苦労したようですね。
たとえば会津藩は、23万石から3万石に家禄を減じられ、辺境の地である斗南(となみ・青森県)に追いやられました。寒冷不毛の地で、会津藩士とその家族たちは、塗炭の苦しみを味わいます。
後に薩長閥の中で会津出身者として白眼視されながらも陸軍大将に上りつめた柴五郎は、このときまだ少年でした。食べるものにも事欠き、塩漬けの野良犬を20日も食べ続けたこともあったと記録に残しています。会津藩は、薩長と戦った戊辰戦争後、生死に関わるような懲罰を科せられたわけです。
奥羽越列藩同盟軍に属し会津に味方したほかの「賊軍」藩も、家禄を減らされるなどしました。さまざまな差別もあったといわれ、賊軍藩出身者は、政官界などでなかなか出世できなかったといいます。
『賊軍の昭和史』で半藤さんがおっしゃっておられるのですが、昭和の戦争で活躍した石原莞爾(庄内)、米内光政(盛岡)、山本五十六(長岡)なども、賊軍藩の出身であったため、ずいぶん苦労したようです。
このように明治維新以降の近現代史についても、今まで語られなかった「賊軍」側の視点から捉え直すことができるのではないでしょうか。
――映画『日本のいちばん長い日』などで有名な、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も、賊軍藩の出身者だったのですね。
鈴木貫太郎さんは、賊軍である関宿藩(千葉県)の出身です。鳥羽・伏見の戦いが始まったころ、藩主が幕府の大坂代官だったため、大坂で生まれています。
その後、海軍に入り日清戦争で大殊勲を上げます。「鬼の貫太郎」といわれるほどの大戦果を上げたんです。
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