「それはおかしい。かつてはみんな結婚できていたんだから」というご指摘もあるでしょう。確かにそのとおりです。ですが、だからといってかつての男が積極的だったという証明にはなりません。
日本はかつて、皆が結婚する皆婚社会でした。国勢調査が始まった1920(大正9)年からのデータを振り返ってみても一貫して生涯未婚率は1990年まで5%以下で推移しています。この驚異的な婚姻率が1875年(明治8年)にはまだ3340万人だった人口を、1967(昭和42)年頃には1億を突破させるほど急成長させた原動力でもあります。しかし、それはいわば国家的な「結婚保護政策」のおかげだったことを認識したほうがいいと思います。
近代日本の婚姻制度を成立させたのは1898(明治31)年に公布された明治民法です。誤解されている方も多いですが、ここで定められた結婚のあり方というのは、それまでの日本人庶民の結婚観とは大きく異なります。時代劇や歴史小説などでは主に武家の話しか出てこないため、すべての日本人が武家様式の結婚生活をしていたと思われがちです。しかし、武家人口は江戸時代の戸籍資料によると、総人口に対してわずか7~8%のマイノリティです。
現在の私たちの祖先のほとんどが農民や町人であったわけで、日本人=武士という考え方は間違いです。当時の庶民たちの結婚は、夫婦別姓であり、ほとんどの夫婦が共働き(銘々稼ぎという)でした。何より、夫婦別財であり、夫といえども妻の財産である着物などを勝手に売ることはできなかったのです。
要するに、明治民法が制定されるまでの日本人庶民の結婚とは、限りなくお互いが精神的にも経済的にも自立したうえでのパートナー的な経済共同体という形に近かったわけです。別の見方をすれば自由でもあり、夫婦の関係は対等でした。
明治民法により妻の経済的自立と自由が奪われることに
それが、明治民法により、庶民の結婚も「家制度」「家父長制度」に取り込まれることになり、主に妻の経済的自立と自由が奪われることになります。夫は外で仕事、妻は家事と育児という夫婦役割分担制もここから「あるべき夫婦の規範」として確立していきます。
それにより、女性にとって結婚とは生きるための就職のような位置づけとなり、基本的に結婚をしないという選択肢はありませんでした。そこで大いに機能したのが「お見合い」という社会的なマッチングシステムなのです。実は、これこそが結婚保護政策の最たるものです。
お見合いとは、個人の恋愛感情より、家と家という2つの共同体を結びつけるための機能が優先されるものであって、ある面では個人の自由がないと言えます。しかし、むしろ個人最適の選択によらず、強制的な全体最適を目指したシステムだからこそ、皆婚が実現できたともいえます。特に、自分からアプローチできない男にとってこのお見合いシステムというのは神システムだったと言えるでしょう。
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