37歳「松坂世代」から見たプロ野球と松坂大輔 昭和55年会の切磋琢磨は僕を奮い立たせた
松坂の代の横浜高校は1998年、春の選抜大会に続いて夏の選手権大会、秋の国体も優勝。前年の秋の神宮大会も制しており4冠を達成している。長い高校野球の歴史の中でもそのチーム力の高さは特筆すべきものがあったが、主役はやはり松坂だった。
夏の準々決勝・PL学園戦で延長17回を1人で投げ抜き、翌日の明徳義塾との準決勝は6点差をひっくり返す大逆転劇を後押しするリリーフ登板。松坂がブルペンで準備を始めただけで球場の空気を変えてしまうほどの投手になっていた。そして決勝の京都成章戦はノーヒットノーラン。まわりの選手がかすんでしまうのは無理がなかったか。
松坂は西武入団後も1年目から3年連続最多勝を獲得。輝きを放つことをやめなかった。
「松坂世代」と呼ばれるように
一方で才能あふれる同級生たちも松坂に負けまいと、すぐにその存在を顕示していった。特に大学に進んだ面々の台頭が目立ち、彼らが2年生となった2000年あたりから「松坂世代」という言葉が世に広がり始める。
法政大に進んだ後藤が春季リーグで三冠王を獲得。小山は亜細亜大で正捕手に、夏の決勝で松坂と投げ合った京都成章の古岡基紀は中央大のエースに成長していた。ほかにも早稲田大の和田毅、九州共立大の新垣渚といった甲子園出場組だけでなく、東海大の久保裕也、龍谷大の杉山直久。六大学春季リーグで防御率1位に輝いた長田も、その1人だ。
「高校時代も横浜以外にもいい選手はたくさんいた。神奈川なら日大藤沢の館山昌平。遠征して練習試合をした明徳義塾の寺本四郎もすごかった。和田も練習試合をして、そのときは印象に残らなかったけど、大学で一気に飛躍して早慶戦で何度も投げ合った。後藤ともよく対戦しました。同級生に負けたくないというのは、みんな持っていたと思いますよ」
同級生で切磋琢磨して実力を伸ばしていったが、西武で同じユニフォームを着た松坂は、やはり別格だった。練習での松坂はすごいと感じさせるものはなかったという。キャッチボールをしても驚くような球が返ってくるわけでもなかった。ところが、試合になるとスイッチが入る。
「試合になると自分の力を全部、出し切れる。バッターが真ん中なのに見逃してしまうような球を投げていた。バッターを威圧するなにかがあったんだと思う。それと今でいうCSであるプレーオフとか、負けられない試合で勝ち切る。大事な試合になればなるほど力を発揮するピッチャー。それが松坂ですね」