こうして各国で知名度を上げていく一方、天然真珠の価値低下を恐れた既存ジュエラーは、「ミキモト排斥」に動いた。なかでもフランスでは、「養殖真珠は偽物か本物か」で訴訟にまで発展。後に語り継がれる1924年に決着した「パリ真珠裁判」だ。
この裁判で学者から「養殖真珠は天然真珠と変わらないものである」と証明され、以後ミキモトの評判は世界でさらに広まっていった。各国で開かれる万国博覧会では、養殖真珠で作った五重塔などを出品、数多くの賞を受けている。
戦争で10年間事業停止に追い込まれる
順風満帆に見えたミキモトだったが、1930年代に入り養殖真珠が普及すると、粗悪で安価なものが市場に出回るようになった。こうした状況に危機感を抱いた幸吉は、神戸商工会議所前の広場で粗悪真珠をかき集めて焼却し、日本の真珠の品質維持を国内外にアピールした。
さらに戦時中の1940年には、ぜいたくを禁止する「奢侈品等製造販売制限規則」が施行され、真珠養殖事業が禁止される事態となった。幸吉82歳のときである。終戦後もGHQにより真珠の一般売買が禁止され、我慢のときが続いた。
1949年にようやく真珠取引が解禁されると、一転して真珠の輸出促進が国によって図られ、ミキモトの復興も進んだ。幸吉は1954年に96歳で生涯を終えたが、「世界中の女性を真珠で飾る」という思いは今でも社員に受け継がれている。
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