東芝を解体した「哲人」社長、西田厚聡の素顔 運命の出会いは、1973年イラン・ラシュト
西田氏はイラン人を妻に持ち、イランに住んでいた。当時すでに29歳。西田氏をパールス・東芝に紹介したのは、社長秘書を務めていた西田氏の妻だった。
その西田氏の妻は、東大大学院在籍中に同じ修士課程にいた、1年先輩の西田氏と結婚している。後に西田氏とともにイランに戻るが、イラン人とのコミュニケーション(ペルシャ語)に苦しんでいたパールス・東芝にとって、現地の有力者とのコネがあり、頭が切れ、東大大学院にも留学、日本語に堪能な西田氏の妻は、渡りに船の人材だった。西田氏は東芝子会社から東芝生活を始めたことになる。そこで持ち前の才覚を発揮し、日本人とイラン人の心をつかみ、1975年には東京芝浦電気(現東芝)本社に引き上げられる。すでに31歳になっていた。
本来は学者コースを歩んでいた
その後トントン拍子の出世をし、2005年に社長に就任する西田氏だが、20歳代の経歴は、経営者というより、学者になるほうがふさわしいコースを歩んでいた。
1943年、三重県に生まれた西田氏は、1968年に早大を卒業。その後、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程に入り、1970年に修了している。ゼミの担任は、政治学の権威といわれた福田歓一教授だ(1923~2007年)。東大法学部卒業生でも入るのが難しい名門ゼミといわれた。
岩波書店が刊行する月刊誌『思想』は、その筋では権威ある雑誌として知られる。実は1970年8月号に当時の西田氏は、「フッサール現象学と相互主観性」という論文を寄稿している。ただの大学院生の論文を、『思想』は掲載しない。恩師・福田教授の編集部への推薦があったと想像される。ドイツ語で論文を読み、書く、期待された弟子なのだ。博士課程でドイツの哲学者フィヒテをテーマに研究していた
後に西田氏がなぜ、学者コースから外れたか、筆者には不明である。夫人を追い、イランのテヘランに移り、東芝子会社に入社する。
東芝の海外営業時代には、米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長と親密な関係を結んだ。ノートPCを売るため、海外の販売会社の経営者夫妻に高級ワインを贈るなど、腕力だけでなく、気配りにもたけていた。西田氏は持ち前の剛腕と気配りで、お公家さん集団と揶揄される東芝をねじ伏せた、”哲人”社長でもあった。
経営危機の原因とされるWH買収も、2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故が起こらなければ、違った展開になっていたかもしれない。無理な「チャレンジ」の要請で、PC事業の利益操作なども引き起こしたとされるが、もしオルタナティブ・ヒストリー(別の歴史)があれば、西田氏は今日、東芝”中興の祖”と称えられたはずだ。新約聖書をそらんじる西田氏なら、「神の摂理」というキリスト教用語や「すべてはアッラーの意思による」というイスラム教の運命観を知っており、自己のとてつもない成功と失墜の運命と重ね合わせたはずだろう。
参考文献:『カスピ海の空はむらさき色―イランに暮らした日々』(日本放送出版協会、ハギィギィ志雅子著、1987年)
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