悲運のエース、伊藤智仁は「幸運な男」だった 記録より「記憶」に残る男のヤクルト人生とは
しかし、彼のピークはこのわずか2カ月半のことだった。6月の1カ月間だけで694球も投じた酷使の影響で右ひじを負傷すると、右肩の故障も重なり、それ以降は思うようなピッチングを披露することができなくなった。
ようやく1996年に一軍復帰、翌1997年にはリリーフ投手としてカムバック賞(ケガなど乗り越えて再び実績を残した選手に与えられる賞)も獲得する。
それでも、再び右肩を故障。手術、リハビリという負のスパイラルに陥り、彼は2002年オフに戦力外通告を受ける。古田をはじめとするチームメートの後押しもあり、何とか1年間の再契約を結んだものの、伊藤の右肩は完治することなく、翌2003年にひっそりと現役を引退した……。
ファンは彼を「悲運のエース」と呼んだ。類まれなる才能を誇りながらも、度重なる故障に苦しみ、本来の才能を発揮することなく、ユニホームを脱いだからだった。女房役を務めた古田は言う。
「よく、『記録よりも記憶に残る』と言いますけど、まさに、彼はそんなピッチャーでしたね。僕はオールスターや日米野球でたいていのいいピッチャーのボールを受けました。その中で、スライダーに関して言えば伊藤智(トモ)のスライダーが1番でした。スライダーというのは、プロの投手ならばほぼ全員が投げる球種です。その中で1番ですから。何しろ、100イニング以上も投げて、防御率0点台というのは、相当レベルの高い話なんでね」
まさに、「記録より記憶に残る男」、それが伊藤智仁だった。
始まった伊藤智仁へのロングインタビュー
筆者は、長い間、「伊藤智仁を書きたい」という思いを抱いていた。そして、ようやく彼にロングインタビューをして、彼を描く機会を得た。飄々(ひょうひょう)とした口調から語られる現役時代の数々のエピソード。そして、故障に苦しみ、リハビリと闘い続けていた当時の話はとても興味深かった。話を聞いているうちに、すぐに気がついた。「伊藤智仁の魅力は決して高速スライダーだけではない」、と。あるとき、彼はこんな言葉を口にしたことがある。
「僕に関する取材は、ほぼ『1993年』についてか、『ケガとリハビリ』についてか、そのどちらかだけですからね(笑)。世間の人が興味を持っているのが、この2点ということなのでしょう。それはそれで、全然構いませんけどね」
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