すっかりおなじみの勝負服から少数所有の個人馬主の勝負服まで。それらを作っている洋服店が福島競馬場のおひざ元にある。競馬場のコースがあるところと同じ福島市桜木町に1924年(大正13年)に創業された合資会社河野テーラーだ。河野正太郎さんが当時は乗馬ズボンを中心に手掛けた。2代目で娘婿だった政平さんは障害騎手の経験があった。
福島市の隣の川俣町はシルクの生産で知られる。たまたま店の向かい側には染め物工場もあった。海外の勝負服を見よう見まねで作った。
騎手時代の人脈がものをいって関係者の信頼も得て、店は乗馬ズボンから勝負服の受注生産が主流に変わった。
平成の時代に入って武豊騎手の注文といわれる体にフィットした「エアロフォーム」の勝負服を開発したのも政平さんの仕事だった。それまでの勝負服はサテン地で風になびく素材だった。「1秒を争うのだから空気抵抗がないほうがいい」と要望した武豊騎手。調教師を通じて注文を受けた政平さんは、懇意にしていた生地業者の協力を得て、試行錯誤を繰り返しながら伸縮自在の素材を使って空気抵抗のない勝負服を完成させた。
27歳で後継者になることを決意
もちろん、サテン地は光沢があって美しく、空気抵抗を改良して現在も勝負服の素材として使われている。政平さんの時代には、ピーク時に中央競馬の勝負服のシェアの7割ぐらいはあったといわれている。
政平さんに子どもはいなかった。甥の河野正典さんは「よく後を継げと言われました」と振り返る。宮城県仙台市で生まれ育った正典さんにとっては祖父母の住む実家でもあり、訪ねてきたときにその仕事ぶりを見る機会もあった。とはいえ、「思春期には反発したし、後を継ぐ気にはならなかった」と笑う。一度は旅行会社に就職。初任地は岩手県盛岡市だった。夜の街で偶然出会ったのは岩手県競馬の関係者。
「河野テーラーなら知ってるぞ。早く戻れ」と言われた。針1本持ったことがなかったが「自分は器用じゃないかとは思っていた」と言う。1999年、27歳のときに弟子入り。優しかったおじさんは厳しい師匠になった。初めはぞうきんを縫う日々。それでも1年過ぎると3日かければ勝負服を1着作れるようになった。
勝負服は複数の手が入ると縁起が悪いといわれる。その言い伝えを守り、河野テーラーでは職人1人の手で1着という手法をずっと続けている。政平さんから「勝負服を作るのは5年かかる」と言われていたが、正典さんは5年目を迎えた頃には聞かれたことには答えられるようになり、問題が起きても自分で解決できるようになっていた。
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