ちょうどその頃、自分が作った勝負服の柄に違和感を持った。JRAの服色検査をクリアしていたのだから普通はわからない。職人しか理解できない違和感を自分で見つけることができた。「手応えをつかんだ」という。それがちょうど5年目のことだった。2006年に政平さんが76歳で他界し、正典さんは34歳で3代目の社長となった。45歳になった今年は社長として11年目を迎えている。
正典さんは政平さんが「ミスをしても怒らない人だった」という。1人1着を仕上げるのが基本。ミスを隠して不完全なものをお客さんに届けることがいちばん悪いことで、何回でもいいからきちんとやり直して仕上げればいいと教えられた。「今度は自分が今、そう教えています」と政平さんを見習っている。
震災乗り越え、「勝負服」が走るだけで喜びに
順風満帆だった正典さんを試練が襲った。2011年3月11日の東日本大震災。原発事故もあった。おひざ元の福島競馬は中止。とはいえ、注文が激減したのは想定外だった。
関西の厩舎からはキャンセルもあった。「風評でしょうかねえ」と正典さんは振り返る。それまでは地方競馬はあまり縁がなかったが、浦和の水野厩舎が声を掛けてくれて、以降は南関東の勝負服も手掛けた。馬が着用するメンコ(覆面)や厩舎スタッフのジャンパーなどを手掛けてしのいだ。「大変なんだって?」と声を掛けてジャンパーを注文してくれた調教師もいた。
「いろいろな方々に助けられたからこそ震災のときにも踏ん張れた。新しい縁も生まれた。震災は悪いことばかりではなかった」。筆者もそのことに同感する。善意に支えられ、縁も深まった。
2012年4月に福島競馬が復活。その時に今までにない感情が湧いた。「それまでは自分が手掛けた勝負服の馬がGⅠや重賞を勝ってほしいと思っていた。それが、あの日は自分が作った勝負服が福島競馬場を走っているだけでうれしかった。これだなと思った。福島競馬が復活して本当によかった」と熱いものが込み上げたという。
勝負服作りは言うまでもなく難しい。胴の生地と袖の生地は地色を使う。そこに輪や星などの生地を縫い付ける。
一文字は胴も袖も一直線に並ぶ図柄でバランスを整えなければならない。特殊な柄が多いため縫い付けるのも大変だ。
最近はプリント生地もあるが、正典さんは「質感は縫い付けのほうがいい。ニーズに応えなければならないが、職人としては縫い付けにこだわりたい」と言う。
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