ギロッポンならぬ「マツロッポン」復活の軌跡 閑古鳥から急回復、福岡で最もアツい六本松

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3-6階にある福岡市科学館の入り口。長蛇の列が連日続いている

延べ床面積約3万7000平方メートル。3階以上は低層棟(6階建て)と高層棟(13階建て)に分かれ、低層棟には科学館や九州大法科大学院が入居。高層棟には住宅型有料老人ホームがある。1、2階の商業エリアにはスーパーや飲食店、蔦屋書店の九州の旗艦店が入った。開発主体のJR九州は、科学館と商業エリアで年間計360万人程度の来館を目指す。

2度の試練を乗り越えた

六本松は、市民のオアシスである大濠公園に近く、天神などの都心へのアクセスも良い

「六本松」という地名は、江戸時代、福岡城の城下町に近いことを示す目印になっていた6本の松に由来するという。ちなみに東京の「六本木」という地名も、一説には6本の松の古木があったからとされており、興味深い。

六本松が学生街としての色合いを帯び始めたのは、1921年11月、後の九州大学の一部となる旧制福岡高等学校が設置されてからだ。1963年には九州大学教養部が置かれ、学生たちが肩で風を切って歩くようになった。

商店と人でにぎわっていた六本松の新道商店街(1975年8月撮影)

「『毎日が正月の太宰府天満宮ぐらい混んでいる』と言われていたもんです」。開業して53年になる「メガネの光和堂」の2代目、大島達男さん(55)は振り返る。当時の六本松は路面電車とバス通りが交差する交通結節点。1965年の地図を見ると、一帯には個人商店がびっしりと連なり、ボタンだけを売る店や、小鳥店まである。

そんな六本松に最初の試練が訪れたのは、2.5キロしか離れていない都心部・天神に次々と百貨店などが進出した1970年代中盤以降。次第に客が離れ、物販店が少しずつ姿を消した。それでも街が活気を失わなかったのは、九大あってこその話だった。

往時を振り返る「光和堂」の大島達男さん

その九大が2009年、六本松から西区に移転。二度目の試練が襲った。学生、教職員計約6000人が消えてしまったのだから、商売には「ボディーブローのようにこたえた」(大島さん)。何とか持ちこたえていた飲食店もひとつ、ふたつと減っていき、窓から漏れる明かりも消えた。

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