38歳、大阪で「魔女を名乗る男」の非凡な人生 ライブハウスなど運営する実業家の商才

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「生活のためにしていたアルバイトを辞めようって決めたんです。トークイベントや映像を撮ることで稼いだおカネだけで生活することにしました」

当時は実家暮らしだったので、生活費はほとんどかからなかったが、それでも月5万円は欲しかった。

大学の映画部で得たスキルを使い、仲良くなったホームレスのドキュメンタリーを撮影してDVDを500~1000円で販売した。それで、なんとか月3万円くらい稼いだ。交通費さえもらえれば無料でもトークライブに出演した。もしギャラを1000円でももらえればありがたかった。

兄と2人でネット配信のラジオ「青春あるでひど」も始めた。兄は公務員で科学者だったこともあり、世の中のアレコレを科学で説明する番組にした。人気コンテンツになって現在も毎週新作を配信しているが、なかなか収入にはつながらなかった。

「好きなことだけで稼ぐと決めると、急に時給が10分の1くらいになるな、と実感しました。時給50円くらいの感覚ですね。つねにカツカツの生活でした。食べるものがなくて、山でタケノコを採って食べたりしてましたね(笑)」

両親からは「30歳までには何とかちゃんとしてくれ」と言われていたが、29歳になってもちゃんと生活できる感じはなかった。

そんな折、先輩芸人が千日前に小さなお笑いの劇場を作った。ただ先輩は運営があまりうまくなく、すぐに閉店することになった。

「だったら僕にやらせてくださいと言って、お笑いのライブハウス『なんば白鯨』の経営を始めました。それが29歳と11カ月のときで、たまたまですが親の期待に応えた形になりました」

自身の松竹芸能時代の経験から「売れる前の芸人が本当にやりたいことをやれるハコ」にした。

売れる前の芸人が本当にやりたいことをやれるハコ「なんば白鯨」(筆者撮影)

フラフラしていた7年間は無駄ではなかった

世間では無料ライブがはやっていたが、それは芸人の価値を下げることだと思い、あくまで入場料は払ってもらった。それで、たとえお客さんが1人しか来なくても、演者はギャラをもらえる、出演者に負担がかからないシステムで経営した。

ライブハウスを始めると、フラフラしていた7年間が役に立った。

「ノーギャラでイベントに出ていたときに知り合った人たちが、『お前がライブハウスをやるなら手伝うよ』と言って出演してくれました。松竹芸能時代の芸人も協力してくれて、ずいぶん助けられました」

お店ができた当初は、B・カシワギさん1人で経営していたのだが、月間40本のイベントを企画して、20本に出演するという過酷なスケジュールをこなしていた。昼、夕方、夜、深夜とイベントを開催して、週末は2時間しか寝られないのが普通だった。

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