1番にはやっているモノではなく、二番手にはやっているモノに興味がいった。
みんなが『月刊コロコロコミック』(小学館)を読んでいるときには、『コミックボンボン』(講談社)を読んでいたし、ビックリマンチョコ(ロッテのシール入り菓子)を集めているときには、ドキドキ学園(フルタ製菓のシール入り菓子)を集める。少しあまのじゃくな少年だった。
また小さい頃から「誠のサイキック青年団」(ABCラジオ)というラジオ番組が大好きだった。パーソナリティの1人である竹内義和さんにあこがれて、ラジオ放送に出る人になりたいという漠然とした夢があった。
「親に『大学くらいは出ておけ』と言われたのもあって、大阪教育大学に進学しました。ただ、大学生活はあまり楽しめず雑誌を読むことだけを楽しみに学校に通う日々でした」
ただ、塾の講師の息子として、卒業はしなければいけないなと思って、1年留年はしつつもきちんと学校へは通った。留年した後に、映画部を作って映画作りを始めた。映像を残すという行為は楽しくて、大学を卒業した後もちょくちょく顔を出した。
吉本興業ではなく、松竹芸能へ
大学を卒業して、松竹芸能の養成所に入った。松竹芸能に入るのは、子どもの頃から決めていた。吉本興業ではなく、松竹芸能に入ったのは、やはり二番手好きだからだった。先輩たちに、「何かしたいことはあるのか?」と言われたので、
「童貞の男性を集めてイベントをやりたい」
と前から温めていた案を言ってみた。すると、先輩方全員に
「だったら松竹芸能を辞めたほうがいい」
と言われた。それはイジワルや説教ではなく、心からそう思って言ってくれているようだった。
芸人で売れるには段階が多い。作家や先輩に認められて舞台に出て、実力と人気をつける。芸歴5年で単独ライブを開催し、50~100人集客できればいいほうだ。そうして客に認められて、タレントになったとして、そこからの道のりはより険しく長くなる。その道のりの中で「童貞のイベント」を開催するタイミングはおそらく訪れない。
「『やりたいことは売れてからやればいい』って言う人がいるけど、それって違うと思うんですよ。売れてしまうと、立場ができてしまうので、やりたいことはやりづらくなってしまうんです。だからやりたいことは、売れる前にやらないといけないんですね。ただそれができる場というのはなかなかありません」
先輩たちの意見に従って、松竹芸能は1年で辞めた。その後敬愛する竹内義和さんが経営するライブハウスでイベントを手伝ったりしたのだが、ハコ自体が潰れてしまいフリーになった。
ちょうど25歳になった頃だった。そこから約5年間、フラフラと生きた。
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