関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ 「裏切りの理由」「徳川秀忠遅刻の原因」も?
Q7. 現在の「関ヶ原の戦い」はどのようにして生まれたのですか?
いくつかの段階を経て作り上げられました。
まず全体的な下地として、天下を取った家康は、豊臣公儀の逆賊となった事実を隠蔽するため、三成1人をヒールに仕立て上げ、自らを正義(公儀)の側へと話をすり替えました。その後、幕府による大名御家人の家譜(かふ)編纂事業の過程で、各子孫が関ヶ原に参戦したご先祖の活躍を「盛った」内容で申告し、それらの「誇大エピソード」が流布します。
さらに、出版ブームに乗って作られた軍記物の小説が、これらを基に読者の反響を得ようと、さらなる「演出要素」を加えます。やがてその顚末が世間の一般的認識として定着して、既成事実化したと考えられています。
「作られた物語」より「歴史の真実」を知る楽しみ
京都にいた公家や僧などの日記には、関ヶ原の戦いに関する記述がいくつかみられます。
たとえば、西軍による伏見城攻めについて、落城にいたる10日余りは連日昼夜にわたり鉄砲攻撃が行われ、その銃声は約12キロメートル離れた京都市中まで聞こえたと記され、すでに合戦での主要兵器が鉄砲に移行していた様子がうかがえます。
こうした記録こそが、戦いの「真実の姿」を伝えるものでしょう。現代の歴史ドラマや小説と同じで、後世に創作された「物語」には、フィクションが多く盛り込まれています。
近年は、「1次史料」の解読が進むのと同時に、「新たな史料」の発見などから次々と「歴史の真実」が解明され、日本史の教科書に書かれる内容も大きく様変わりをみせています。
本記事で解説した関ヶ原の戦いでも、聖徳太子でも、どの題材でも構いません。ぜひ、小説やドラマなど「作られた物語を楽しむ」ところからもう一歩進み、「最新の日本史」を学び直すことで「歴史の真実を知る楽しみ」を体感してみてください。
みなさんが学校で学んだときよりも、日本史は「大きく進化」しているからです。
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