関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ 「裏切りの理由」「徳川秀忠遅刻の原因」も?
また、「優柔不断な小早川秀秋に、家康は問鉄砲で裏切りを催促した」というよく聞く俗説も、揺らいでいます。
小早川秀秋への「問鉄砲」はなかった
戦闘開始後、数時間が経過してなお東軍への寝返りを決行しようとしない小早川秀秋に対し、業を煮やした家康は秀秋の陣に「問鉄砲」を撃ちかける(大砲を撃ちかけたという説もあり)と、これに恐怖した秀秋はついに寝返りを決意し、戦いは一気に決着する──この場面は、まさに関ヶ原の戦いのクライマックスです。
ただ、当時の記録には問鉄砲についての記述は見当たらず、宣教師の記録には秀秋は「開戦と同時に」家康方についたと記されたものもあります。
義弘は三成の命令に反して終始陣を動かず、最後は島津の武力を誇示するために正面の家康本陣に突撃し、そのまま中央突破で戦場を離脱して、薩摩へ帰国したとされています。
これらについては、戦後まとめられた島津将兵による証言等から、①義弘勢はもともと少数兵力だったため、二番備(にばんぞなえ)と呼ばれる予備兵力の役割だった、②後方の退路が潰走する味方と追撃する敵軍でごった返していたため正面突破を選んだ、③伊勢方面を目指したためたまたま家康の本陣前をかすめる形になった、などが真相のようです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら