「人間、やってみたらわかることがあって、ちょっと例えが下品かもしれませんが、『自分のことをドMだと思っていたら、ドSの部分もあった』みたいな(笑)。私って、『何でもええんかいっ!』っていうぐらい、すぐ多幸感に包まれるんですよ。ホントにいい加減な女ですよね(笑)」
中瀬さんは目の前の仕事を好きになるだけでなく、会社の仲間はもとより、作家をはじめ、仕事関係者と次々に"相思相愛"の関係を築いていった。
まずは自分から、「圧倒的に好き」になってみよう
「私、私生活もそうなんですが、ものすごくほれっぽいんです。『好き力』、パネェ!(好きになる力が、半端じゃない!)ってやつです(笑)。人間は相対的な生き物なので、こっちが『なんだ、あいつ』と否定的に思っていたら、だいたい向こうも『なんだ、こいつ』って思ってるんですよね。だから、その反対に、自分から先に圧倒的に好きになったら、たいてい相手も好意を返してくれるんです。もちろん、100人いて100人好きになれることはないので例外もあるんですけれど、私は圧倒的な『好き力』のおかげで、人から助けてもらっていろいろな場面を乗り越えることができましたし、人生を変えてもらうようなこともたくさんありました」
純文学を担当した時代には、"教養の塊"で売り出したばかりの文芸評論家の福田和也さんに会社のロビーで初めて会った瞬間、一目で好きになり、それ以来、「福田さん」「オバはん」と呼び合う仲になっていた。ほかにも、後に盟友になる鷺沢萠さん、柳美里さんや、吉村昭さん、白洲正子さんと出会い、自分から好きになることで、相手にかわいがられ、中瀬さんは日々人間の幅を広げていった。
中瀬さんは、キャリアに関してもガツガツすることなく、仕事でかかわる人たちのことをまず自分から好きになって、ギブしようとすることで、周囲に愛され、大きなチャンスを得るようになっていく。
37歳のときだった。当時『新潮45』の編集長が『週刊新潮』の編集長に代わるタイミングで、中瀬さんが後任として編集長のポストを託されたのである。
「私は人の手伝いをするほうが好きな性分なんです。だから、自分が編集長という一国一城の主になるなんてことは、まったく考えていませんでした。しかも、もともと『新潮45』は『新潮45+』という誌名で、45歳以上の雑誌という意味だったのですが、私はそのとき37歳で45歳に満たないし、『私みたいな小娘、いや、小娘だかもわからないような人間がやれません』と訴えたら、編集長に『そんなことないよ、地位は人を育てるから』と説得されて、どうしようと思いながら家に帰りました」
帰宅後、作家であり、一緒に暮らしていた白川道(しらかわとおる)さんに、このことを相談する。
「『トウちゃん、どうしよう。こんなこと言われて』と打ち明けたら、白川は『お前な、人生なんて1回きりだぞ、そんなもの、やってみてダメだったら、クビにしてもらえばいいじゃないか。やらずに自分には無理だとか言っているようじゃもったいないだろうが』と言われて。確かに、人生は一度きりだし、『新潮45』の編集長なんて世界で何人もやれないわけだし、このチャンスは1回しかないわけだし、これを断るより、やってダメなら身を引けばいいんだと思って、引き受ける決意をしました」
しかし、編集長になりたての頃は苦しんだ。「45歳以上の男性はこういうものを読みたいのではないか?」と読者層を意識するあまり、中瀬さんは自分がどんな雑誌を作ればいいか、わからなくなっていた。
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