その際、「人を動かす」という発想はやめることだ。人はボタンを押して動かせるものではない。人間と人間、生ける者と生ける者との関係は、ここを押したら動くといった、計算のうえだけでやるものではない。この操作的な人間観は人間同士の関係を腐蝕させる危険がある。
──現世利益は祈ってもいい。
イエス・キリストと旅路を共に歩んでいると考えると、これを何とかしてもらえないかという願いが出るのは、旅路の語り合いの自然な一コマ。いつも立派な話をしているわけではない。その結果がどうなるかは別の問題になるが、そういう話は気軽にできている。
「奇跡」を信じると人生の広がりが増す
──奇跡にこだわる人も。
人は巌(いわお)のように動かぬものと考えて現実の中でちぢこまっているところがある。しかし、キリスト教にはこの天地は神が創ったものであり、巌のごとく堅固なものでなく、すばらしいことが起こりうるという奇跡の信仰が基本にある。そして、それは現実に起こることがある。サハラ砂漠で針を見つけるほど珍しいことではない。
医療専門家がさじを投げる病気が回復することは現実に起こる。それが神のおかげかどうかは証明できないにしても。「起こりうる」「現実に起こることはある」「多くの場合は起こらない」。この3つを同時に受け入れるのがキリスト教の信仰だ。起こりうるを視野に入れると、人生の広がりが増す。
私自身としてはまったく起こりえないと思っていた経験的な事実に、たとえば1989年にベルリンの壁が倒れたことがある。
──福音という言葉をキリスト教によく使います。
キリスト教のメッセージを受け入れて、それと共に生きるとあなたは幸せになれる、が福音の本来の意味。ただ受け入れた時点では保証はない。情報でなくて招きにすぎない。この道を歩めばあなたは幸せへの道に入れる、やってみないかという誘いだ。そして何でも話せるパートナーと日々語り合うことが幸せになるための中核にある。いろいろな願い事がかなうことになるが、それが中心ではない。何でも語り合えるパートナーがあることそのものが人間の幸せなのだ。
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