結婚は縁があって出会った男女が関係を日々少しずつ深め、あなたはこういう人と、互いにだんだん納得していく。その中で出産と子育ての可能性が開かれて、2人の交わりの中から、よきものとして子育てや一緒に手掛ける商いという日常が生まれていく。人間の幸せはそこにある。これはキリスト教の2000年の歴史の中で大事なこととして伝えられてきた。
──「原罪から救う」がキリスト教では?
それはイメージだ。キリスト教の「真面目(しんめんぼく)」を表すものは「共に生きる」、つまり「今ある存在のイエス・キリストと日々、人生の草々について喜び、疑問、悩みを語り合いつつ、人生の旅路を共にする」こと。凝縮して表現するとこうなる。イエス・キリストとの語り合いはおとぎ話に思えるかもしれないが、信者にとっては人間とイエス・キリストが次第に近づいてきて、あるところで日々語り合う存在として立ち現れてくる。
──それが信者の日常感覚なのですね。
宗教の宗教たるゆえんは箇条書きになったような教理ではなくて、信者の日常感覚に個別宗教の神髄がある。キリスト教信者は2000年間、そのようにイエス・キリストを実在と感じて一緒に生きてきた歴史がある。信者の数は今現在20億人ぐらい。イエス・キリストと信者が共に歩むことの中で積み重ねてきた関係性に対する洞察、それは信仰のない人にとっても人間と人間が共に生きるとはどういうことかを知るうえで参考になる可能性がある。
人間の幸福とは、キリスト教信者にとってはイエス・キリストという神との関係を日々深めていくことで、それを「平行移動」させれば、たとえば妻と夫が互いの関係を深めていく姿になる。
結婚は人が共に歩む典型
──平行移動?
とりあえず男女のカップルで考える。人と人との交わりは手をつないだり、意見を交換したりといったこともあるが、人間は体を持つ。体の次元での交わりがあることが夫婦の特色で、それが実現できるのは男女の夫婦だ。
それが典型的な道ではあるが、たとえば教師として現場50年、教育という技芸職能と結婚したような人もいる。子ども全体と歩もうとした場合、そういう生き方でもいいのであって、男女の結婚が唯一のものではない。しかし、結婚は人が共に歩む典型であり、結婚は共に歩むのパラダイム(模範)なのだ。
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