なぜSMAPは国民的アイドルと呼ばれたのか 無言のまま終了した「スマスマ」が伝えたこと
『大人のSMAP論』は、SMAPが「国民的アイドル」であることを引き受けたのは、2011年3月の東日本大震災後だとしている。今上天皇が被災地でひざまずいて慰問をしたのは「これまでの常識ではあり得ないことだった」。木村拓哉も被災地の慰問で「小学生の背丈に合わせてひざまずいた」。「アイドルと天皇を比較するのは不敬に見られるかもしれないけど、違和感がないくらいに「国民統合の象徴」的な役割をSMAPも担ってきた部分があります」(速水)。
『SMAPと平成』は「SMAPはいつ、国民統合の象徴となり、そして、時代を代表する俳優になったのか。それは、一九九六年四月のことである」と極めて具体的に特定している。ところが読み進めていっても、どんな出来事がきっかけでそうなったのかという解説がないのだ。
再び「国民統合の象徴」という言葉が出てくるのは、阪神・淡路大震災後に出演した『ミュージックステーション』で、予定されていた新曲を変更し被災地に呼び掛けるために「がんばりましょう」を歌ったことを評価した箇所で、1995年1月20日のことだ。「このとき、日本芸能史において、アイドルの役割が劇的に変わった。国民統合の象徴となったのだ」。
矢野『ジャニーズと日本』はどの時点と特定はしていないが、阪神・淡路大震災後に「がんばりましょう」が歌われたときをそれとなく画期に置いている。
太田『SMAPと平成日本』も、特にこの時点でという評価はしていない。ここまでにあがってきた数々の出来事は、その都度SMAPと社会との結びつきを緊密にし、またメンバーたちに社会に対して自分らが果たすべき役割に自覚的になるよう促していった。そうしたプロセスを積み重ねるなかで、SMAPは「公共性」を帯びていき、老若男女を問わず「私たち」はSMAPに「希望を託す」ようになったのだと論じている。
太田は『SMAPと平成ニッポン』のなかで「国民的アイドル」とか「国民統合の象徴」といった言葉を使っていない。「平成ニッポンがSMAPを求めた」とは書くが「国民的」とは言わない。意識的に避けたのだろう。
「スマスマ」最終回が視聴者に突きつけた事実
実はSMAP解散をめぐる報道で「国民的アイドル」と連呼されるのに違和感があった。そんなふうに形容されているのを見た記憶がなかったからだ。共同通信の記事にも書いたが、データベースで調べたところ、大手新聞がSMAPを「国民的アイドル」と呼ぶようになるのは2016年以後、解散騒動が持ち上がってからのことで、それ以前は皆無に近かった。つまり解散騒動によって、SMAPは「国民的アイドル」であったことを"発見"されたのである。
『大人のSMAP論』で、ジャニヲタのみきーるが「SMAPはピークを探すのが難しいんですよ。常にピークで、常に日常だから」と述べているが、そんな当たり前になっていた「常にピークの日常」に亀裂が走ったことでようやく、SMAPのかけがえのなさと巨大な存在感に気づき、慌てて「国民的」と被せたということだろう。
『スマスマ』最終回は、メンバーの唯一の出演シーンが録画で、おまけに一言も発しないという異様な演出で終わった。どう好意的に解釈しても尋常ならざる事態であり、ファンが怒りを激化させているのは当然として、特にファンではない視聴者も何か強烈に理不尽なものを見せられたという印象を持ったはずだ。「えっ!? これがあのSMAPの最期なの?」と。
皮肉な言い方になるけれど、『スマスマ』最終回の異常さは、SMAPを本当に「国民的アイドル」にしたかもしれない。「公開処刑」と呼ばれた2016年1月18日の『スマスマ』オープニングでの謝罪会見によってSMAPが「国民的アイドル」であったことが発見されたとするなら、「まるで生前葬だ」と嘆かれた2016年12月26日の『スマスマ』最終回エンディングは、SMAPは「国民的アイドル」なのだという事実を、極めて逆説的にだが、観る者に揺るぎなく伝えたのである。
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