終戦後は、進駐軍の放送から流れる音楽を貪るように聴き、そこでドビュッシーやラヴェル、メシアンなどのフランス音楽に接して大きな影響を受ける。その後正式に音楽を学ぶように勧められたことから、東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲家受験を試みるも、試験内容や雰囲気が肌に合わず2日目に受験を放棄。以後すべて独学によって作曲技法を身に付けていく。このあたりは、現代に至る日本の音楽教育への強烈な警鐘にも感じられる。
作曲家として世に出る前はピアノを所有することも叶わず、街を歩いていてピアノの音が聞こえると、出向いて行ってピアノを弾かせてもらっていたという逸話が残る。まさに音楽に対する渇望こそが作曲家武満徹を生み出す原動力だったのだろう。
武満を巡る2つのエピソード
さらには、初期の傑作「弦楽のためのレクイエム」にまつわるエピソードも印象的だ。
1957年に東京交響楽団の委嘱によって作曲されたこの作品は、日本国内ではまったく評価されなかった。ところが来日中のロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが偶然耳にして絶賛したことが注目され、世界の武満への足掛かりとなる。
こうして世に出た武満の名声を不動のものとしたのが、彼の代表作として名高い、琵琶、尺八とオーケストラのための作品『ノヴェンバー・ステップス』だろう。米国の名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督レナード・バーンスタインと親交の深い指揮者小澤征爾の紹介がきっかけとなって、同オーケストラ125周年記念作を委嘱された武満徹。その委嘱テーマは、邦楽器とオーケストラの組み合わせだった。
そしてここに、琵琶の鶴田錦史と尺八の横山勝也という2人の名手の演奏を念頭に置いて作曲された名作「ノヴェンバー・ステップス」が誕生する。1967年11月9日、ニューヨークの文化の中心リンカーン・センターに位置するエイブリー・フィッシャー・ホールで行われた初演は今や伝説だ。
小澤征爾指揮ニューヨーク・フィルハーモニックと共にステージに登場した2人のソリストは、奇妙な楽器を手にした羽織袴姿の東洋人。初めは興味本位で見ていた聴衆の態度は音楽が進むにつれて一変。終演後には演奏者と聴衆が一体となって会場全体がどよめくような祝福に包まれたのだ。このあたりの詳しい様子については、不世出の天才琵琶奏者鶴田錦史の人生を描いた佐宮圭著『さわり』に詳しく書かれているので、興味のある方はぜひお読みいただきたい。
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