松下幸之助は「凡人だからこそ成功できた」 経営の神様が問わず語りに語ったこと

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それに人材に恵まれておったということも幸いしたな。素質のある人が次々に入ってきてくれた。最初はどうなるかと思う人もあったけど、それぞれにみんな努力をしてくれたな。みんな仕事熱心で、夜でもなかなか帰らんのや。見習いの人たちでさえ、よう仕事したな。

わしは少し早く帰ってな、帰るといっても工場と同じところに、わしの家があるんやからな、それで、たまたま夜10時過ぎて事務所に行くとな、まだ灯りがついていて仕事をしとるんや。きみら、なにをやっておるんや、そんな遅くまで仕事しとったらあかん。体、壊すやないか。はよ寝んかいな、と、まあ、よく注意をしたもんや。それが何回も重なると、しまいには遅くまで仕事するのはけしからん、と叱らんといかんというような姿であったな。

 

社員が誇りをもてる理想を掲げる

まあ、それほどに、当時の人たちはよう働いてくれた。みんな努力して、自身で向上をしてくれた。本当にありがたいと、今も、しみじみとそう思うな。会社が大きくなったのも、そういう社員諸君がみんな一生懸命やってくれたお陰やな。わしひとりの力ではない。みんなの、そうした努力あればこそやな。そういう気持ちを、これからの人も忘れたらいかんね。今日、会社があるのは先輩のみなさんのお陰やと、感謝の気持ちを持ち続けることがまた、会社がさらに発展する力になるわけや。わしは運が強かった。いい人材に恵まれたということやな。

それから方針を明確にしたというのもよかったな。また理想も掲げたしな。

まだ町工場といった時代に、250年計画というのを発表したんや。250年後に生産者の使命を全うして、わが国に楽土を建設しようと。考えてみれば大それた計画やわな。そりゃあ、きみ、まだそのへんの町工場や。そんなところが、わが国を自分たちの努力で楽土にしよう、というんやからな。しかも250年後や。

けど、こういうように、理想を社員に提示したことによって、社員諸君は、いわば誇りを持ったわな。今は町工場やけど、250年先は、日本という国を楽土にするような会社になっておるんかと。そこで社員みんなが一段と力強い成果をあげてくれるようになった。

それだけではない。その理想に向かって、個人としても正しく生きていかんといかんということになるな。個人的な努力もするということになる。それで昔は、あんたとこの人は誠実や、真面目やとよく言われたもんや。

今は大勢になったからな、どこまでこういう考えが、行き渡っておるのか、心配はあるな。けど、とにかくそういうように理想を掲げたことがよかったと思うな。それに理想を掲げることは、会社を長く存在させるという決意の表明でもあるわけや。

5つ目は、電気という仕事が時代に合っておったということがいえるわな。わしは、それまで自転車屋に奉公しておったけど、大阪の街を走る電車を見て、これからは電気が世の中を変えるんやないかと、そう思った。それで電灯会社に入って、それから数年して、電気器具製作所として独立したんやけど、まあ、その電気というものが、その後の時代に乗ったというか、合っておったんやな。これも幸いであったわな。

きみ、これが、もう遅いわな。今からということであれば。ちょうどの時期であったと言えるわね。

江口 克彦 一般財団法人東アジア情勢研究会理事長、台北駐日経済文化代表処顧問

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えぐち かつひこ / Katsuhiko Eguchi

1940年名古屋市生まれ。愛知県立瑞陵高校、慶應義塾大学法学部政治学科卒。政治学士、経済博士(中央大学)。参議院議員、PHP総合研究所社長、松下電器産業株式会社理事、内閣官房道州制ビジョン懇談会座長など歴任。著書多数。故・松下幸之助氏の直弟子とも側近とも言われている。23年間、ほとんど毎日、毎晩、松下氏と語り合い、直接、指導を受けた松下幸之助思想の伝承者であり、継承者。松下氏の言葉を伝えるだけでなく、その心を伝える講演、著作は定評がある。現在も講演に執筆に精力的に活動。

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