こんなバカな話があるだろうか? 中学、高校でもそうだが、日本の英語教育は、英語が話せない教師が、生徒に日本語で話しかけ、英語を教えている。これは英語の授業ではないだろう。
つまり、そういう教師を全部クビにして、英語ネイティブ教師に代える。これが、第一にすべきことだ。それなのに、文科省がそうしないのは、現在の英語教師の雇用を守っているとしか思えないのだが、どうだろうか?
今回、英語教育がさらに低学年化したことで、「英語は大人になってからでも遅くない」という反対論がまたささやかれている。また、「日本の英語教育は読み書き中心。それができるのだからいいのでは」という意見も聞こえてくる。しかし、これらは全部間違っていると、私は思う。
なぜなら、どの言語でもそうだが、子供はまず親から話しかけられて言葉を覚え、その後、子供同士で幼児語を使ってコミュニケーションするようになる。さらに学校に通って、友達や先生に囲まれ、いろいろな言葉を覚えていくというプロセスを通して成長していく。こうした過程をいっさい無視して、ある時点から知識としての英語教育だけを施しても、なかなか上達しない。つまり、小さいときから自然に言葉に接したほうがいいに決まっているのだ。
「読み書きならなんとか」という錯覚
あなたが日本語を覚えた過程を思い出してほしい。まず、お母さん、お父さんの話している言葉をまねするところから、言葉を覚えたはずだ。そうして、だんだんに話すようになり、学校に入って読み書きを覚えた。順番で言うと、「聞く」→「話す」→「読む」→「書く」である。
ところが、日本の英語教育は、こうした自然な流れを無視し、むしろ逆からやっているのだ。こうすると、いつまでたっても話せない。また、「聞く」→「話す」を飛ばして「読む」→「書く」を中心に教えると、結局「読む」→「書く」もできなくなる。できているように思えるのは、英語を日本語に翻訳して「読む」、日本語を英語に翻訳して「書く」ということだけで、よく「読み書きならなんとか」と言う人がいるが、これは一種の錯覚である。
次に、時間数が足りないという問題を考えてみよう。
今回の案どおりになるとすると、子供たちは小学校4年生から英語を習うことになる。そうして、中学、高校と6年間、英語を勉強する。さらに大学に入ってからも教養課程で2年間、英語の授業を受けるとすると、なんと、今後の日本人は11年間も英語を勉強することになる。
とすれば、これだけやるのだからさすがに英語が話せるようになると、誰もが思うだろう。しかし、考えてみてほしい。私の年代は、中学校からスタートしたので8年間、英語を勉強した。しかし、ほんの一部の人間しか話せないのだ。それが3年延長されただけで、本当に話せるようになるだろうか?
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