そんなかいあって、慶應からは無事、よい返事をもらうことができた。一方、JPLからは一向に返事が来なかった。しばらく慶應には待ってもらったのだが、あてのない返事を待ち続けて逃してしまうには惜しすぎた。僕は慶應からのオファーを受けることを決めた。
僕は慶應の仕事に対して何ら不満はなかった。それどころか、30歳に満たない駆け出しが、自分の部屋を持ち、学生を持ち、時間の100%を自分の裁量で使え、さらには数百万円の研究費まで無条件で与えられるのだから、これほどよい仕事などそうあるものではない。だから僕は慶應で「先生」として働くことに素直に興奮していた。
ただ、JPLに未練がなかったかといわれれば、そうでもなかった。落とされて悔しくなかったかといわれれば、死ぬほど悔しかった。吉川英治の三国志を読んだことがある方ならば、曹操に仕えていた時の関羽の気持ち、と言えばわかっていただけるだろうか。
JPL再チャレンジ
再びチャンスが巡ってきたのは、MITを卒業する直前のことだった。当時JPLにいた日本人の先輩が、インターンの機会があると声をかけてくれたのだ。ちょうど僕が博士課程でやっていた研究テーマがそのまま応用できる研究プロジェクトがあるとのことだった。ちなみにその先輩とは、7年前に僕がMITを志望するきっかけを与えてくれ、また前回の記事で説明したアメリカ永住権の取得方法も教えてくれた人だった。一生、頭が上がらない。彼と一緒に仕事をしたことはなかったが、専門分野が近いので、僕の博士研究を理解し、評価してくれていた。
MITの卒業が2月初頭、慶應での勤務開始が4月で、その間の2カ月はインドを放浪しようかと思っていたのだが、それどころではない。その期間にJPLでインターンをすることを、僕は二つ返事で諒解した。
そうして、僕は失敗に終わった面接から約1年ぶりにJPLにやってきた。真冬だというのに、南カリフォルニアの空には相変わらず太陽がさんさんと輝いていた。
このとき、僕には2つの魂胆があった。ひとつは、この2カ月間必死で頑張ってよい結果を出し、僕の能力を認めさせて、採用しなかったことを後悔させてやろうという魂胆。そしてもうひとつは、そうすればいずれ将来にまた縁があるかもしれない、という魂胆だった。
そして僕はそのとおりにした。昼夜も土日もなく働き、3週間でまとまった結果を出した。次の2週間でそれを論文にし、国際学会に投稿した。さらに残りの時間でもうひとつ結果を出し、そちらは帰国後に論文にした。双方とも採択された。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら